レーサーとしての経歴
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「ヘルムート・マルコ」の記事における「レーサーとしての経歴」の解説
青少年時代から友人だった後のF1世界王者ヨッヘン・リントと共に、在学中からモータースポーツの世界に携わるようになる。 ポルシェ・ザルツブルクチームからフォーミュラ・Veeの分野でデビュー。1968年にはカイマン・チームに移籍し、オーストリア・チャンピオンに輝く。カイマンではニキ・ラウダと同僚でもあった。翌1969年にはF3にも参戦した。スポーツカーレースにも進出し、マルティーニ・レーシングから出場した1970年のル・マン24時間レースでは総合3位に入選。クラスでは1位を獲得している。 1971年8月15日にF1デビューを果たす。BRMのレギュラーシートを確保し、最終的に10戦のF1レースに参戦するも、選手権ポイントの獲得はならなかった。 耐久レースでは前年に引き続きル・マン24時間レースに参戦。マルティニ-ポルシェ・917Kを操りジィズ・ヴァン・レネップと組んで総合優勝を果たした。このレースで更新された走行距離記録の5335.313 kmは、2010年に破られるまで長らく保持された。 1972年のタルガ・フローリオでは、安全上の懸念があるにも関わらず、数分の遅れを取り戻すため、ファステストラップを更新して追い上げたが、最終的には数秒差で敗れ2位となった。このとき、同5月21日にマルコがアルファロメオ・ティーポ 33で記録した33分41秒(平均128.253km/h)は、720kmのレース中のラップタイムとしてはタルガ・フローリオ史上最速記録である。 だが数週間後の7月2日、クレルモン・フェランで開催されたF1 1972年フランスグランプリで、縁石のないコーナーをカットした前車エマーソン・フィッティパルディのマシンが小石を跳ね上げ、これが後ろを走る彼のバイザーを突き抜けて目に当たった。失明こそ逃れたがレーシングに必要な視力は戻らず、その年でレーシングドライバーとしてのキャリアは終了した。
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レーサーとしての経歴
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「ジャッキー・オリバー」の記事における「レーサーとしての経歴」の解説
レース経歴を1961年から始め、初めはイギリスのクラブサルーンレースでミニをドライブした。続いてロータス・エランによるGTレースにステップアップ、何度か上位入賞し、その後フォーミュラ3で苦戦、彼の速さはメカニカルトラブルでしばしば無駄となった。 それにもかかわらず、1967年に彼はチーム・ロータスのフォーミュラ2チームに移籍、ドイツグランプリでグランプリデビュー、F2クラス優勝、総合で5位という成績を上げた。1968年にはコーリン・チャップマンによってF1チームに引き上げられ、ジム・クラーク死去後のロータスF1のシートを得た。彼の契約はF2マシンのドライブは含まれていなかった。ハーツ・アンド・エセックス・エアロクラブの運営責任者であったトニー・ラドリンとの議論で、クラブのカラーで車を走らせるという取引が行われた。ロータスは車両とメカニックを供給し、ラドリンはチームマネージャーを務めた。F2チームの車両は完全なロータス仕様ではなかったが、運営は総じてうまく行った。年末にチームはアルゼンチン・テンポラーダの4レースに招待される。ハーツ・アンド・エセックスチームはシリーズランキング3位となる。F1のシーズンは苦戦し、オリバーはゴールのため苦闘した。イギリスグランプリではエンジントラブルでリタイアするまでトップを走行し、シーズンで完走したのは2度、彼の最高位は最終戦メキシコグランプリでの3位であった。 ヨッヘン・リントが1969年ロータスと契約し、オリバーはBRMに移籍した。彼はBRMでの2年間を失意の内に過ごすこととなり、それは事実上、彼のグランプリキャリアを終わらせる原因となった。2年間で完走は4回のみで、ポイントを得たのは1969年メキシコグランプリでの6位と1970年オーストリアグランプリの5位のみであった。しかしながら彼は1970年シーズン、レース・オブ・チャンピオンズでは首位を走行してジャッキー・スチュワートを抑え、オランダグランプリやイギリスグランプリでは3位を走行して激しいバトルを繰り広げた。オリバーはオーストリアで5位に入ったが、彼がこのレースで優勝しなければならなかったと考えたチームのボス、ルー・スタンリーはこれを期待外れな結果ととらえ、その後良い車はチームメイトのペドロ・ロドリゲスに与えられた。しかしながらオリバーはその後イタリアグランプリでもレースをリードして見せた。スタンリーはオリバーについて「良いけれども、彼が考えるほどには全然良くはなかった。」と語っている。BRMでのレースの大半はリタイアで終わった。メインスポンサーのヤードレーは彼が解雇されたのを知って驚き、失望した。ジャッキー・スチュワートはオリバーを大変良いグランプリおよびカンナムドライバーであると判断している。[要出典] 彼の時期における耐久レースでの最高成績はジャッキー・イクスとともにドライブしたジョン・ワイアーのガルフ・フォード・GT40による、1969年のセブリング12時間レースとル・マン24時間レースでの優勝と、ペドロ・ロドリゲスと組んで優勝した1971年のモンツァ1000kmレースである。 1969年、彼はカンナムにオートコーストからデビューし、続いてドン・ニコルズのシャドウから出走した。1971年、彼は再びF1にフル参戦しマクラーレンのサードカーを走らせた。1972年はシャドウからカンナムへの参戦に集中し、F1はイギリスグランプリにBRMからスポット参戦、リタイアに終わった。 1973年にシャドウはF1に参入し、オリバーはチームリーダーに指名された。シャドウ・DN1は難しいマシンであり、彼の活躍の機会はメカニカルトラブルで失われた。しかしながら、カナダでは好走し、多くがオリバーがこのレースで実際には優勝したと考えている。しかしレースでは、にわか雨のため多くのピットストップが発生し、さらにオーガナイザーが極めて不適当な形でペースカーを導入したことでラップチャートは混乱した。結果オリバーは3位に入賞したと認定されることとなり、これがこのシーズンで獲得した唯一のポイントとなった。 1974年はカンナムのタイトル獲得のために集中する。彼はその後シャドウの経営にも関わるようになっていたが、フォーミュラ5000にも3シーズン参戦し、1977年にはF1にもスポット参戦、レース・オブ・チャンピオンズでは5位に入賞、スウェーデングランプリでは9位となった。
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