タイトル獲得
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プロ入り早々頭角を現し、1988年6月11日と89年5月27日に行われた、第7回・8回の早指し新鋭戦で2連覇。決勝戦の対戦相手は両年とも羽生善治五段であった。さらには、全棋士参加の大型棋戦である全日本プロトーナメント(第7回、1988年度)において、谷川浩司名人と決勝三番勝負を戦い、2勝1敗で谷川名人を破り、優勝した(1989年3月13日)。18歳5か月での優勝は、新人棋戦を除く公式戦に於ける史上4番目の年少記録である。1988年度の将棋大賞で新人賞を受賞。 プロ入り後も向上心は旺盛で、特に前述した島研では、森内と佐藤が四段に昇段した後、羽生も加わり、4人体制での練習対局と感想戦を中心にした研究が行われ、刺激し合いながらの精進が続いた。 順位戦での勝率は高く、C級2組を3期、C級1組を1期、B級2組を2期、B級1組を1期で抜け、合計わずか7期で最高クラスのA級まで上りつめた。そして初参加のA級順位戦で7勝2敗の成績を納め、第54期名人戦七番勝負の挑戦権を獲得。森内にとって、初のタイトル戦挑戦である。相手は、当時七冠王だった羽生善治名人。25歳同士の対戦であった。タイトル戦初対局となった1996年4月11日・12日の第1局は、二つの意味で話題となった。一つは、相矢倉の将棋で、「壁銀」になるのをいとわず、3三にあった銀を△2二銀(40手目)と引く作戦に出たこと。もう一つは、1日目夕方の封じ手の定刻の間際、立会人の五十嵐豊一九段が「時間になりましたので」と言いかけたところで「指すつもりなんですけど」と言って△9四歩(44手目)を指し、羽生を封じ手の手番にさせたことである。森内はこの対局に敗れ、そこから3連敗。第4局でタイトル戦初勝利をあげたものの第5局で敗れ、1勝4敗で敗退となった。森内は、第2局の敗戦を「こんな負け方がありうるとは…」、続く第3局の敗戦も「不思議な負け方」と、当時を振り返る。結果的に敗れはしたが、棋士冥利に尽きる名人戦だったという。それと同時に、羽生との差を痛感した名人戦でもあった。 1996年度、NHK杯戦において、決勝で屋敷伸之七段を破って初優勝。同棋戦では、5年後の2001年度にも、佐藤康光王将を破り優勝した。 1999年度の第12期竜王戦では1組優勝。1999年度、第25期棋王戦の挑戦権を獲得。棋王は、それまで9連覇を果たしていた羽生であった。第25期棋王戦五番勝負の結果は、1勝3敗での敗退。敗れはしたものの、名人戦の頃と違い、手応えを感じたという。 全日本プロトーナメント(第19回、2000年度)において、谷川浩司九段との決勝五番勝負(2001年)を3勝2敗で制して2度目の優勝。同棋戦の最後の優勝者となる。 第60期順位戦A級で、森内は8勝1敗の好成績を納め、丸山忠久名人への挑戦権を得ると、第60期名人戦七番勝負において丸山名人を4連勝で破り、31歳にして念願の初タイトルとなる名人位を獲得(2002年5月17日)。また、名人位に就いたことにより、将棋連盟規定により九段に昇段。
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