2期とは? わかりやすく解説

2期(1971年~1992年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)

投下 (モンゴル帝国)」の記事における「2期(1971年~1992年)」の解説

この時期に、投下制度研究の方向性大きな影響与えたのが松田孝一による「モンゴル漢地統治制度松田1978)」 であった松田モンゴル帝国建国時のチンギス・カンによる遊牧民分配華北投下分配比較することにより、初め両者極めて密接に関係していることを指摘した松田以後投下領を単なる封邑とみるのではなくモンゴル帝国独自の国家体制延長線上に投下制度位置づける流れ始まった松田孝一はその後投下制度に関する研究相次いで発表したが、特に「フラグ家の東方領(松田1980)」では西アジアイルハン朝興したフレグ家の投下領が遠く離れた大元ウルス存続していたこと、14世紀入ってから投下領の収益送還始まったことが指摘されたが、これは「元朝成立以後、各ハン国別個の国として分裂していった」という通説再考促すものであったまた、この時期には日本研究影響受けて中国人研究者相次いで投下制度に関する研究発表しており、特に李治安は従来投下制度研究総括する体系的な研究行った。この時期研究共通するのは「部族封建制」と「中央集権制」 という2項対立引き継ぎなからも、両者複合的重層的組み合わさったのが投下制度である、という見解である。これは、投下制度具体像が明らかになる中で両者特質浮き彫りになった結果指摘されている。 20世紀後半以後日本におけるモンゴル研究は「数多く研究者擁する点、研究成果広汎・詳備である点で世界屈指である」と評されている。これは、(1)元寇及び戦前における満洲内蒙進出といった歴史的経緯により、モンゴル対す関心高く研究蓄積が多いこと、(2)長きにわたる漢文訓読伝統と、本田実信導入したペルシア語史料読解技術によって、東西文献同時に操れ研究者生み出しやすい土壌にあること(例えば、欧米の研究者は全くのゼロから漢文史料ペルシア語史料読解技術を身につけねならず、この点において日本人研究者より不利な立場にある)、(3)20世紀後半モンゴル帝国旧領大半占め社会主義陣営開放路線取ったことで新出史料多数現れたが、(1)(2)利点有する日本人研究者多く新出史料活用した研究成果挙げられたこと、などによる。 日本人研究者の間で積極的に新出史料、特に碑文史料用いられたことは早くから中国人研究者の間でも注目されており、1989年出版された『元史概説』では「日本若手研究者の間で『金石熱』が起こっている」と紹介されている。

※この「2期(1971年~1992年)」の解説は、「投下 (モンゴル帝国)」の解説の一部です。
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