20世紀後半(イスラエル独立以降)
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「イスラエルの歴史」の記事における「20世紀後半(イスラエル独立以降)」の解説
1948年2月23日 - エルサレムで、アラブ人テロリストの爆弾テロにより、55名のユダヤ人が虐殺される3月4日 - アタロトで、アラブ人が16人のユダヤ人を待ち伏せ攻撃し、虐殺 4月8日 - デイル・ヤシーン村にて、ユダヤ人テロ組織によるアラブ人村民の大量虐殺事件発生(デイル・ヤシーン事件)。アラブ人のイスラエル領からの大量脱出始まる。 4月13日 - シェイフヤラ・ハダサー医療従事者虐殺事件(en):デイル・ヤシーン事件の報復と称するアラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。ハダサーの医師・看護婦・ヘブライ大学教授・職員70人以上が虐殺される。 5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ軍が100人のユダヤ人を虐殺(15人は降伏後に処刑) 5月14日 - イスラエル国として独立宣言 5月15日 - アラブ5カ国の正規軍、イスラエルに侵攻 第1次中東戦争(~49年7月)。国際統治案もあったエルサレムの西半分がイスラエル領となる。 1952年まで、ヨーロッパ・アラブ諸国からの大規模なユダヤ人の移民があった。 イスラエル国防軍が編成される 9月 - テロ組織シュテルンのテロリスト、国連調停官ベルナドッテ伯を暗殺 アヴィグドル・ダガン移民 1949年6月 - トランスヨルダン、ヨルダン・ハーシム王国に改名。 7月 - エジプト・ヨルダン・シリア・レバノンと休戦協定(イラクは拒否) イスラエル、人口過密となったガザ地区併合を申し出るが、エジプトが却下 8月 - ガザ地区のパレスチナ「難民」10万人の帰還を提案するがアラブ連盟が却下 その後イスラエルはアラブ人「難民」の放棄した土地の買収を国連に持ち込むが、否決 イスラエルで第一回総選挙 イスラエル、国連に59番目の加盟者として加盟 エフライム・キション移民 1950年 - 帰還法制定4月24日 - ヨルダン、エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を併合という形にする 1951年 - モシェ・カツァブ移民 1952年 - ダニエル・バレンボイム移民 1956年 - 第二次中東戦争(シナイ作戦)。エジプトのナセル大統領のスエズ運河国有化宣言に対応して、英・仏・イスラエル連合軍がスエズ運河に侵攻。米・ソの仲介により三国は撤退 1959年 - 神学・セム語学者、ユダヤ教研究者の小辻節三がエルサレムにおいて改宗(遺体はエルサレム) 1961年 - 第一回イスラエル音楽祭 1962年 - アドルフ・アイヒマン死刑 1964年 - ナショナル・ウォーターキャリア計画(全国水道網)が完成する。砂漠地への配水が行われるようになる「パレスチナ解放機構(PLO)」設立 1967年6月5日-6月10日 - 第三次中東戦争(六日間戦争)。エジプトのナセル大統領による紅海のティラン海峡の封鎖が引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施。エジプトのシナイ半島を、同戦争に参戦したシリアのゴラン高原を占領下におき、エジプトの統治下にあったガザ地区、ヨルダンの統治下にあった東エルサレム・ヨルダン川西岸地区を主権下におく(エルサレム再統一)。六日間でイスラエルの圧倒的勝利に終わる。国境線が画定するまで、停戦ラインを維持することを発表 1968年-1970年 - 消耗戦争。スエズ運河を挟んだエジプトとの砲撃戦が2年間継続、同運河の運行に支障をきたす。70年に停戦となる 1969年 - ミッシャ・マイスキーの姉がイスラエルに亡命し、マイスキーの一家はソビエト当局の監視下に置かれ、のち投獄される 1972年5月30日 - テルアビブ空港事件;「パレスチナ解放運動」に共鳴した(「新左翼武装組織」)日本赤軍のメンバー三人が、テルアビブのロッド空港において、AK47自動小銃・手榴弾で一般旅行者らの無差別虐殺をはかり、100人あまりが死傷(殺害は24人)。9月5日 - ミュンヘンオリンピック事件; ミュンヘンオリンピック開催中、パレスチナ・テロリストが選手村のイスラエル選手宿舎を襲撃。レスリング・コーチとウエイトリフティングの選手を殺害、9人を人質にする。救出作戦は失敗し、パレスチナ人は選手9人全員を殺害、銃撃戦の末ゲリラ5人・警官1人が死亡 1973年 - 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争、十月戦争)。エジプトのサダト大統領がシナイ半島奪還を目的としてユダヤ教の祝日「大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍に攻撃を開始。地対空ミサイルと対戦車ミサイルにより陸・空軍に甚大な損害を蒙り、イスラエル軍の不敗神話が崩壊する。その後アリエル・シャロン将軍が現役復帰、スエズ渡河作戦を実行。形勢は逆転し、17日で停戦に至る7月20日 - ドバイ事件;日本赤軍のメンバー1人と4人のパレスチナ・ゲリラがパリ発東京行きの日航機を、アムステルダム空港離陸後にハイジャック、ドバイ空港、ダマスカス空港などを経、リビアのベンガジ空港に着陸させ、人質141人を解放後、機体を爆破して投降 1974年 - PLOを「パレスチナ人」の唯一の代表機関とする決議がアラブ連盟首脳会議で決定その後、アラブの圧力により、国連はPLOを「準政府組織」として認定 ゴラン高原の停戦監視として国際連合兵力引き離し監視隊(the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)設立。 1975年 - イスラエルがECの准加盟国となる11月10日 - 国連に、アラブ側が、「シオニズムは人種差別主義である」という国連決議案を提出 1976年 - エンテベ人質救出作戦(オペレーション・ヨナタン)。一部のパレスチナ過激派がエールフランス機をハイジャック、ユダヤ人またはイスラエル人以外を解放し、ウガンダのエンテベ空港に着陸。同国のイディ・アミン大統領の庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルのラビン首相は特殊部隊を派遣し、人質奪回とハイジャッカーの全員射殺に成功。ルドルフ・バルシャイ帰還 1977年 - 第9回イスラエル国会選挙で、野党であり続けた右派政党のリクードが初めて勝利し、左派政党の労働党は初めて選挙で敗北して下野した。 1977年 - サダト大統領のエルサレム訪問。これまで仇敵であったエジプトのサダト大統領がエルサレム訪問を宣言し、クネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結の第一歩となるリクード政権が成立。30年あまりの労働党政権が終わる 1978年 - ピース・ナウが結成された。 1978年 - キャンプ・デービッド合意成立。 1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結。イスラエルが占領していたシナイ半島の返還に合意し、米国のカーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が調印。イスラエルにとって初のアラブの隣国との平和条約となるエジプト、ガザ地区の領有権を放棄 ピアニスト・ウラディーミル・フェルツマン、イスラエルへの移住を希望し、ソ連政府から演奏家としての自由を奪われる(→コスモポリタニズム批判) 1980年 - 西岸・ガザ地区での、入植地 Israeli settlement 建設が本格化する。 1981年 - イラクの原子炉爆撃。アメリカ合衆国と戦略協力の覚書を交換する 1982年 - ピース・ナウの活動家でありヘブライ大学の大学院生であったエミール・グルンツヴァイグが、ピース・ナウを嫌悪する右派のユダヤ系イスラエル人に殺害された。 1982年 - イスラエル、シナイ半島からの撤退を完了 1982年 - レバノン侵攻(ガリラヤの平和作戦、第一次レバノン戦争)。 1984年 - 挙国一致内閣が成立する 1985年 - 木の脚作戦(チュニジアの首都チュニスのPLO本部への空爆作戦) 1986年2月 - ナタン・シャランスキー移民 1987年12月 - ガザ、西岸でインティファーダ(パレスチナの反イスラエル暴動作戦)開始 1988年 - 人工衛星・オフェク1に打ち上げ成功7月 インティファーダによって体制に危険が及ぶことを恐れたヨルダンのフセイン国王、ヨルダン川西岸の切り離しを宣言 1989年 - イスラエル、四項目和平を提案するソ連からの大量移民(→コスモポリタニズム批判の解消)
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