20世紀後半とは? わかりやすく解説

20世紀後半(イスラエル独立以降)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 08:52 UTC 版)

イスラエルの歴史」の記事における「20世紀後半(イスラエル独立以降)」の解説

1948年2月23日 - エルサレムで、アラブ人テロリスト爆弾テロにより、55名のユダヤ人虐殺され3月4日 - アタロトで、アラブ人16人のユダヤ人待ち伏せ攻撃し虐殺 4月8日 - デイル・ヤシーン村にてユダヤ人テロ組織によるアラブ人村民大量虐殺事件発生デイル・ヤシーン事件)。アラブ人イスラエル領からの大量脱出始まる。 4月13日 - シェイフヤラ・ハダサー医療従事者虐殺事件en):デイル・ヤシーン事件報復称するアラブ人テロリストによる護送車襲撃事件。ハダサーの医師看護婦ヘブライ大学教授・職70人以上が虐殺される。 5月12日 - クファール・エツィオンで、アラブ軍が100人のユダヤ人虐殺15人は降伏後処刑5月14日 - イスラエル国として独立宣言 5月15日 - アラブ5カ国の正規軍イスラエル侵攻 第1次中東戦争(~49年7月)。国際統治案もあったエルサレムの西半分イスラエル領となる。 1952年まで、ヨーロッパ・アラブ諸国からの大規模なユダヤ人移民があった。 イスラエル国防軍編成される 9月 - テロ組織シュテルンテロリスト国連調停官ベルナドッテ伯暗殺 アヴィグドル・ダガン移民 1949年6月 - トランスヨルダンヨルダン・ハーシム王国改名7月 - エジプト・ヨルダン・シリア・レバノンと休戦協定イラク拒否イスラエル人口過密となったガザ地区併合申し出るが、エジプト却下 8月 - ガザ地区パレスチナ難民10万人の帰還提案するアラブ連盟却下 その後イスラエルアラブ人難民」の放棄した土地買収国連持ち込むが、否決 イスラエル第一回総選挙 イスラエル国連59番目の加盟者として加盟 エフライム・キション移民 1950年 - 帰還法制定4月24日 - ヨルダンエルサレムを含むヨルダン川西岸地区併合という形にする 1951年 - モシェ・カツァブ移民 1952年 - ダニエル・バレンボイム移民 1956年 - 第二次中東戦争シナイ作戦)。エジプトナセル大統領スエズ運河国有化宣言対応して英・仏イスラエル連合軍スエズ運河侵攻米・ソ仲介により三国撤退 1959年 - 神学セム語学者ユダヤ教研究者の小辻節三エルサレムにおいて改宗遺体エルサレム1961年 - 第一回イスラエル音楽祭 1962年 - アドルフ・アイヒマン死刑 1964年 - ナショナル・ウォーターキャリア計画全国水道網)が完成する砂漠地への配水が行われるようになる「パレスチナ解放機構PLO)」設立 1967年6月5日-6月10日 - 第三次中東戦争六日間戦争)。エジプトナセル大統領による紅海ティラン海峡封鎖引き金となり、イスラエルが「先制攻撃」を実施エジプトシナイ半島を、同戦争参戦したシリアゴラン高原占領下におき、エジプトの統治にあったガザ地区ヨルダン統治にあった東エルサレム・ヨルダン川西地区主権下におく(エルサレム再統一)。六日間でイスラエル圧倒的勝利に終わる。国境線画定するまで、停戦ライン維持することを発表 1968年-1970年 - 消耗戦争スエズ運河挟んだエジプトとの砲撃戦2年継続、同運河運行支障をきたす70年停戦となる 1969年 - ミッシャ・マイスキーの姉がイスラエル亡命しマイスキー一家ソビエト当局監視下に置かれ、のち投獄される 1972年5月30日 - テルアビブ空港事件;「パレスチナ解放運動」に共鳴した(「新左翼武装組織」)日本赤軍メンバー三人が、テルアビブロッド空港において、AK47自動小銃手榴弾一般旅行者らの無差別虐殺をはかり、100人あまりが死傷殺害24人)。9月5日 - ミュンヘンオリンピック事件ミュンヘンオリンピック開催中、パレスチナ・テロリストが選手村イスラエル選手宿舎襲撃。レスリング・コーチとウエイトリフティング選手殺害、9人を人質にする。救出作戦失敗しパレスチナ人選手9人全員殺害銃撃戦の末ゲリラ5人・警官1人死亡 1973年 - 第四次中東戦争ヨム・キプール戦争十月戦争)。エジプトサダト大統領シナイ半島奪還目的としてユダヤ教祝日大贖罪の日(ヨム・キプール)」にイスラエル軍攻撃開始地対空ミサイル対戦車ミサイルにより陸・空軍甚大な損害を蒙り、イスラエル軍不敗神話崩壊するその後アリエル・シャロン将軍現役復帰スエズ渡河作戦実行形勢逆転し17日停戦に至る7月20日 - ドバイ事件日本赤軍メンバー1人と4人のパレスチナ・ゲリラがパリ東京行き日航機を、アムステルダム空港離陸後にハイジャックドバイ空港ダマスカス空港などを経、リビアベンガジ空港着陸させ、人質141人を解放後機体爆破して投降 1974年 - PLOを「パレスチナ人」の唯一の代表機関とする決議アラブ連盟首脳会議決定その後アラブ圧力により、国連PLOを「準政府組織」として認定 ゴラン高原停戦監視として国際連合兵力引き離し監視隊(the United Nations Disengagement Observer Force, UNDOF)設立1975年 - イスラエルECの准加盟国となる11月10日 - 国連に、アラブ側が、「シオニズム人種差別主義である」という国連決議案を提出 1976年 - エンテベ人質救出作戦オペレーション・ヨナタン)。一部パレスチナ過激派エールフランス機をハイジャックユダヤ人またはイスラエル人以外を解放しウガンダエンテベ空港着陸同国イディ・アミン大統領庇護のもと膠着状態が続くが、イスラエルラビン首相特殊部隊派遣し人質奪回ハイジャッカー全員射殺成功ルドルフ・バルシャイ帰還 1977年 - 第9回イスラエル国会選挙で、野党であり続けた右派政党リクード初め勝利し左派政党労働党初め選挙敗北して下野した1977年 - サダト大統領エルサレム訪問これまで仇敵であったエジプトサダト大統領エルサレム訪問宣言しクネセット(イスラエル国会議事堂)で演説を行う。二年後の平和条約締結第一歩となるリクード政権成立30年あまりの労働党政権が終わる 1978年 - ピース・ナウ結成された。 1978年 - キャンプ・デービッド合意成立1979年 - イスラエル・エジプト平和条約締結イスラエル占領していたシナイ半島返還合意し米国カーター大統領仲介のもと、キャンプ・デーヴィッドにてエジプトサダト大統領イスラエルベギン首相調印イスラエルにとって初のアラブ隣国との平和条約となるエジプトガザ地区領有権放棄 ピアニスト・ウラディーミル・フェルツマン、イスラエルへの移住希望しソ連政府から演奏家としての自由を奪われる(→コスモポリタニズム批判1980年 - 西岸ガザ地区での、入植地 Israeli settlement 建設本格化する。 1981年 - イラク原子炉爆撃アメリカ合衆国戦略協力覚書交換する 1982年 - ピース・ナウ活動家でありヘブライ大学大学院生であったエミール・グルンツヴァイグが、ピース・ナウ嫌悪する右派ユダヤ系イスラエル人殺害された。 1982年 - イスラエルシナイ半島からの撤退完了 1982年 - レバノン侵攻ガリラヤの平和作戦第一次レバノン戦争)。 1984年 - 挙国一致内閣成立する 1985年 - 木の脚作戦チュニジア首都チュニスPLO本部への空爆作戦1986年2月 - ナタン・シャランスキー移民 1987年12月 - ガザ西岸インティファーダパレスチナ反イスラエル暴動作戦開始 1988年 - 人工衛星オフェク1打ち上げ成功7月 インティファーダによって体制に危険が及ぶことを恐れたヨルダンフセイン国王ヨルダン川西岸切り離し宣言 1989年 - イスラエル、四項目和平提案するソ連からの大量移民(→コスモポリタニズム批判解消

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