パレスチナ解放運動
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「ヤーセル・アラファート」の記事における「パレスチナ解放運動」の解説
1956年にスエズ危機が起こるとエジプト軍に入り、第二次中東戦争に工兵大尉として従軍。戦後はクウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となるファタハを結成。1963年にシリアに迎えられ、イスラエルに対する武装闘争に入ってファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させ、1966年にファタハはヨルダンの拠点からイスラエル軍兵士を地雷で殺害してサム事件(英語版)を起こして第三次中東戦争の引き金となる。第三次中東戦争での敗北で権威が失墜していたエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領から消耗戦争でのファタハの活躍を注目され、パレスチナ問題の全権を委任されたアラファートは「パレスチナの指導者」に迎えられて1969年にPLOの議長としてパレスチナ解放運動の指導者に立つこととなった。 アラファート指導下のPLOは、パレスチナ難民が多く居住するヨルダンに拠点を作ってイスラエルに対する越境攻撃を行い、イスラエル軍の反撃を撃退して一挙にアラブ・パレスチナの英雄となる。しかし、勢力を拡大したPLOはヨルダンにおける「国家内国家」となってしまい、ヨルダン政府と利害を衝突させるようになった。翌1970年、PLOによるテロがヨルダンを巻き込んで国際的に行われるようになると、このことがパレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れるフセイン1世国王の逆鱗に触れ、フセイン国王は9月14日に戒厳令を敷いて国王親衛隊のベドウィン(アラブ遊牧民)部隊を投入、PLOを攻撃した(ブラック・セプテンバー事件)。 ファイル:Gaddafi with Yasser arafat 1977.jpg カダフィ大佐(右)と、1977年 アラファートはこの事件によってヨルダンから追放されるものの、今度はレバノンに移って1970年代を通じてイスラエルに対する武装闘争を続け、この時期の第四次中東戦争を契機とするアラブ諸国とイスラム教諸国の結束の機運に乗じて、1974年のモロッコのラバトで開かれたアラブ連盟首脳会議では「パレスチナ唯一の代表」と認められたPLOへの資金援助をアラブの産油国は義務付けられることになり、同年にはパキスタンのラホールのイスラム諸国会議機構首脳会議でもアラファートは演説してイスラム諸国39ヶ国首脳とバードシャーヒー・モスクでの金曜日の集団礼拝に参加した。アラブ諸国とイスラム諸国から多大な支援を受けたアラファートは国連総会で非政府組織の代表としては初めての演説を行い、1979年には外国の要人では初めてイスラム革命後のイランを訪れて反イスラエルながらアラブ諸国と対立していたルーホッラー・ホメイニーの支援も取り付けた。しかし、1983年にレバノン内戦でのシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドとの不和から拠点であったダマスカス(シリア)とトリポリ (レバノン)を追放され、ハビーブ・ブルギーバの招きでチュニジアのチュニスにPLOの本拠地を移す。1985年にヨルダンと和解してアンマンでヨルダンとパレスチナによる連邦制で合意する。1988年7月にヨルダン国王フセイン1世がアブドゥッラー1世の時代から主張し続けたパレスチナの領有権を破棄すると、同年11月にアラファートはパレスチナ国家を建国するとしてパレスチナの独立宣言を発表し、イスラム世界や非同盟諸国と共産圏を中心に国家承認を得て翌1989年4月にパレスチナ中央評議会はアラファートをその「大統領」に選出した。
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パレスチナ解放運動
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「マフムード・アッバース」の記事における「パレスチナ解放運動」の解説
1950年代よりカタールにおいてパレスチナ解放運動に関わり、ヤーセル・アラファートを指導者とする解放運動組織ファタハの結成に参加。後にファタハが参加したパレスチナ解放機構(PLO)においてもその幹部となった。1960年代から1980年代にはアラファートと行動をともにし、1970年にブラック・セプテンバーでヨルダンを追われた後、レバノンの首都ベイルートで活動。さらにイスラエルにレバノンを追われ、チュニジアに活動の拠点を移した。その間、PLO国際局長として外部の様々な機関との交渉に携わり、PLOの対イスラエル強硬路線放棄に関与したとされる。1993年のオスロ合意に基づく交渉と調印の場でも、アラファートに同行した。 和平合意に基づき、PLOをもとにパレスチナ自治区がつくられた後は、PLO執行委員会事務局長を務め、民主主義的な手続きをとって選ばれた自治政府による自治区の運営を目指す動きの中心的な人物となった。 和平プロセスが行き詰まり、2000年から始まった第二次インティファーダにおいては、非PLO系のハマスなどを中心とするパレスチナ人による対イスラエル武装闘争路線・テロ攻撃が続発した。自治政府大統領のアラファート議長やPLOの保守派が、テロに対して断固とした反対姿勢を打ち出せない中、アッバースは終始イスラエルに対する過激な抵抗に対して批判的な立場を取った。
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パレスチナ解放運動
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「ライラ・カリド」の記事における「パレスチナ解放運動」の解説
1959年にジョージ・ハバシュが率いるパレスチナ解放運動に参画し、その後1967年にハバシュが設立したパレスチナ解放人民戦線に参画した。その後の1969年8月29日にPFLPが起こしたローマ発アテネ行きのトランス・ワールド航空840便ハイジャック事件を成功させたことで、PFLPの女性活動家として世界的に著名になった。しかしこの事件でその顔写真が世界中で報じられ世界的に著名になったため、その後新たなテロ事件を起こすべく整形手術を受けた。
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