1960年代から1980年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:04 UTC 版)
「チェコの映画」の記事における「1960年代から1980年代」の解説
1960年代はミロス・フォアマン、ヤン・ニェメツ、ヴェラ・ヒティロヴァやイジー・メンツェルなど国立映画学校出身の若手映画監督が一線に出てきて、チェコスロバキアの映画は目覚ましい飛躍をとげた。とくにそれらの映画監督が1960年代中期に実践した仕事をチェコ・ヌーヴェルヴァーグといい、フォアマンの『ブロンドの恋』(1965年)、ニェメツの『夜のダイヤモンド』、ヒティロヴァの『ひなぎく』(1966年)、メンツェルの『厳重に監視された列車』(1966年)といった作品がその代表で、いずれも何気ない日常生活をおくる登場人物を軽快に描き、その描写をとおして巧妙に政治批判を行った。このときのチェコスロバキア映画に対する国際的な評価は高く、たとえば、1965年から1968年のアメリカ合衆国のアカデミー外国語映画賞では、4年連続でチェコスロバキア映画が受賞ないしノミネートを受けるなど、さまざまな国際映画祭や各国の映画賞で受賞を果たした。しかし、1968年にチェコ事件が起きるとそれら映画監督は沈黙を強いられてチェコ・ヌーヴェルヴァーグは終えんを迎え、フォアマン、カダール、イヴァン・パッセルらが国外に去った。 1970年代には年間50本から70本の映画が製作されて、一時落ち込んでいた製作状況も徐々に回復しはじめた。ただ、国内に残ったヤロミル・イレシュが『闇のバイブル 聖少女の詩』(1970年)、メンツェルが『つながれたヒバリ』(1969年)、ヒティロヴァが『りんごゲーム』(1977年)などを製作するも、質と量ともにチェコ・ヌーヴェルヴァーグには及ばなかった。 1980年代にはいると、国外に亡命や移住をした映画監督が母国で映画を撮るようになっていった。第57回アカデミー賞の作品賞や監督賞など、数々の映画賞を受賞したフォアマンの『アマデウス』(1984年)もそのひとつで、プラハ市街やバランドフ撮影所で撮影を行った。そのほか、この時期の映画にはズデニェク・トロシュカの『太陽と藁と苺』(1984年)や、ヤン・シュヴァンクマイエルのアニメーション映画『アリス』(1988年)などがある。
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