1960年代――晩年そして、ドラッグへのメッセージ
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「メヘル・バーバー」の記事における「1960年代――晩年そして、ドラッグへのメッセージ」の解説
1962年にババは、最後の国際貢献の一つとして、東洋、西洋集合と呼ばれる集会を何回か行った。これらの集会では、西洋の信者とインド人の弟子たちが出会うように招かれていたが、肉体的痛みを押して何千人もの人々にババはダルシャン(darshan)を与えた。 1960年代の半ばに、ババは西洋のますます流行するドラッグ文化に関心を持つようになり、ティモシー・リアリーやRichard Alpertらの西洋の学識経験者たちと通信をし始めた。その中で、彼は霊的な目的で全ての幻覚剤を使用することに強く反対の意を示した。1966年に、ドラッグに関するババへの質問の返事が、『God in Pill?』というタイトルのパンフレットで公表された。メヘル・ババはドラッグを用いることは、霊的にダメージを与え、もし、悟りがドラッグによって可能なら、『神は、神に値しないことになる』と述べた。メヘル・ババは、西洋人の若い弟子たちに指導して、このメッセージを広めさせた。そのようにすることで、この時期に若者たちの間にメヘル・ババの教えに対する認識が増大した。Frederick Chapmanとの会見の中で、ババはLSDは『肉体的に、精神的に、霊的に有害である。』と述べ、『LSDの継続的使用は、狂気や死に導く。』と警告した。このFrederick Chapmanはハーバード大の卒業生で、フルブライト・プログラムで奨学された学者であり、インドで一年研究した際にババに出会ったことがある。 このような背景で反ドラッグのキャンペーンは、合衆国、ヨーロッパや、オーストラリアのババ・ラヴァーズによって始められた。このキャンペーンの大部分はうまくいかなかったけれども、それは新しい信者たちの波を生み出し、ババの考え方のいくらかが幻覚剤の利点や危険についての学術的論争に反映される形となった。 1962年の東洋と西洋の集合以降に、ババの健康は着実に悪化した。肉体の衰えにもかかわらず、ババは、長い期間に渡って独居や断食を行い続けた。1968年7月の後半の特に過酷な独居の時期を完遂した後に、この時までにババの仕事を『100%以上の満足で完成した』と述べている。この時期は、ババは車椅子を用いていた。2,3ヶ月の間に彼の症状は悪化し、床に伏すようになった。彼の肉体は強い筋肉痙攣によって痛み、その原因は医学的には不明だった。数名の医師たちの手当にもかかわらず、痙攣はますます悪化した。 1969年1月31日に、ババは、メヘラバッドの自宅で息を引き取った。彼は、最後のジェスチャーで次のように伝えた。『私が、神であることを忘れてはならない。』と。当時、ババの熱心な信者たちは、彼の死の記念日をhis death Amartithi(deathless day)「死のない日」と呼んだ。ババの体は、メヘラバッドのに威儀堂々と安置された。バラで飾られ、氷で冷やされ、最後の埋葬まで一週間に渡って、大衆にお別れの機会が与えられた。ババの死の前に、メヘル・ババはプーナで行われる予定であった大衆に向けたダルシャンの企画に向けて熱心に準備していた。マンダリたちは、ホストが肉体では存在しないにもかかわらず計画通りに実行する決心をした。数千人の人々がこの最後のダルシャンに訪れ、合衆国、ヨーロッパ、オーストラリアからも何百という人々が献花した。
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