1960年代から2000年代
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「アンチ巨人」の記事における「1960年代から2000年代」の解説
「アンチ巨人」という表現は、既に1960年代には新聞や雑誌で使われていた。例えば1962年の『宝石』誌に掲載された作家の戸板康二の特集記事には、「テレビを買ってから大のプロ野球ファンとなった戸板さんは、アンチ巨人派の有力なメンバーの一人。ジャイアンツと戦っているチームは、どこであろうと応援するそうである」との記述がある。作家の山口瞳は、1964年の『漫画読本』誌で発表した「アンチ巨人軍論」という随筆で「野球のわかる、ほんとに野球の好きな人にアンチ巨人が多い」と述べた上で、プロ野球界には強い巨人の存在が不可欠だと主張している。また山口は1965年の『小説新潮』誌の随筆でも「アンチ巨人」という言葉を使い、目先の勝利しか考えない見苦しい試合運びは巨人にふさわしくないと注文をつけている。大洋ファンだった評論家の山田宗睦は、1964年の『朝日新聞』コラムで、反権威・反権力を自負する者の多い知識人層にはアンチ巨人が多いが、中にはもう一ひねりして「アンチ・アンチ巨人」になる者も出てきたようだという意味のことを述べている。作家の北杜夫は、1965年の『週刊読売』(巨人の親会社である読売新聞社が発行)の野球観戦記の中で、自身が阪神ファンであり、かつアンチ巨人でもあることを表明している。戦前からの巨人ファンだった文芸評論家の巖谷大四は、1965年の『中央公論』に掲載された随筆で、「巨人、大鵬、卵焼」という言葉には巨人ファンを幼稚だと侮蔑する含みが感じられるとして不快感を示し、アンチ巨人の大部分はごく最近プロ野球を見るようになった層であろうとの私見を述べている。 江川事件(空白の一日)など選手の入団に関するトラブルが度々発生したことも、アンチ巨人を増加させる要因となった。渡邉恒雄オーナー(当時)が球団経営に関わるようになった1990年代以降、希望入団枠制度やフリーエージェント制度が導入され、以前よりも希望球団入りが容易になった。これらの制度を活用し、巨人以外にドラフト指名された選手が「巨人以外は拒否」という姿勢を取ったり、フリーエージェントで巨人への移籍を希望する選手が増えた。このためアンチ巨人の間では、この制度改革は経済力や人気を利用した巨人のためのものであると批判されている。
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1960年代から2000年代
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「ジローナFC」の記事における「1960年代から2000年代」の解説
クラブ創設から約50年間はエスタディ・ビスタ・アレグレをホームスタジアムとしていたが、1968年にはエスタディ・モンティリビの建設が開始され、1970年からはモンティリビをホームスタジアムとしている。1977年、セグンダ・ディビシオンとテルセーラ・ディビシオンの間にセグンダ・ディビシオンB(現3部相当)が創設されると、1980年には初めてセグンダ・ディビシオンBに在籍し、3シーズンプレーした。1980-81シーズンには1933年以来初めて4部相当のリーグ(テルセーラ・ディビシオン)まで落ち、1982-83シーズン、1997-98シーズン、1998-99シーズンにはディビシオネス・レヒオナレス(地域リーグ、5部相当)でもプレーした。2006-07シーズン終了後にはセグンダ・ディビシオンB昇格を果たした。ラウール・アグネ監督に率いられた2007-08シーズンはセグンダ・ディビシオンBを1位で終え、昇格プレーオフではADセウタを1-0で破って49年ぶりにセグンダ・ディビシオン昇格を決めた。
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