1960年代と1970年代
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「アイラビスタ (カリフォルニア州)」の記事における「1960年代と1970年代」の解説
1960年代初期までに、それまでの学生たちは寮の門限や入室制限に不満を覚えるようになり、アイラビスタの規制が無いアパートに移ってくるようになった。大変積極的な開発業者がその需要にあるアパートを建設し、郡の監督官に働きかけて、アパートに合わせた駐車場を確保させ、さらに住民密度を高めた。これと同じ頃に、エンバルカデロ・ループ周辺の商業ゾーンの資産所有者を統一する動きが失敗し、協調した事業開発や商業の顧客の駐車の問題が未解決で残された。 1967年までにアイラビスタには数百の安普請した多層階の住宅が建設され、医院や歯科医院、宝石商、保険と金融の事務所、さらには広い範囲の本屋、アートシアターの映画館などのある商業中心ができた。樹木を含めた景観は好ましい高さまで育たず、町は不毛の印象があり、空き地にはゴミが集められていた。この頃、若者文化あるいはカウンター・カルチャーが成長し、アイラビスタはカリフォルニア海岸をヒッチハイクで行き来する若者にとって自然の立ち寄り所になった。 作家で詩人のリチャード・ブローティガンは、1967年10月にアイラビスタのユニコーン本屋で最初の『アメリカの鱒釣り』朗読会を行った。ユニコーン本屋とそれが関連する印刷所は、洗濯機と名だたるビールのメイターク家の相続人であるケン・メイタークの後援を受けていた。この印刷所は多くの有名詩人の本を出した。しかし、周辺のサンタバーバラの町はアイラビスタで立ち止まるカウンター・カルチャーのがらくたには不快であり、同じ頃に地区検事が全裸シーンのある映画を上映していたアートシアター映画館のマジックランタンを襲った。映画館の経営者はわいせつ物陳列罪で起訴され、金を失い、事業も潰した。郡保安官部は白昼の通りでマリファナなど薬物を公然と扱うことを好まず、緊張感が増した。ドアーズのジム・モリソンがある夜、砂浜でトリップしているときに、アイラビスタの南西端の数マイル沖にある石油掘削プラットフォーム「ホリー」の明るい灯りを見て、『水晶の舟』という曲を書いたという土地の伝説がある。 1969年、アンディ・ウォーホルの映画に出ていたイーディ・セジウィックは、当時のアイラビスタにメタンフェタミン利用者の社会があったこともあってこの町に住んだ。セジウィックの兄はフォーチュナ道路沿いに住んだ。彼女の家族はサンタイネスに近い牧場に住み、そこは現在カリフォルニア大学自然保護システムの一部に組み込まれている。セジウィックはエル・エンバルカデロの麓にある浜辺で若いゲイの男ランス・ラウドと出逢った。ラウドはPBSテレビのドラマ『アメリカの家族』に出ていた。ラウドは既にウォーホルの手下であり、少年たちがバレーボールをしているのを見ていたときに、セジウィックが犬を連れて通りかかり、彼女だと認識した。その2年後、セジウィックは『アメリカの家族』で撮影されていたサンタバーバラ美術館であったファッションショーに出席し、家に戻るとバルビツール酸塩を過剰に摂取した。セジウィックはソルバングに近いバラードに埋葬されている。 「アイブイリーグ」と呼ばれた学生集団が、アイラビスタで市民としての責任を取るべく組織を作り、ストリートパーティの手配、保安官との会合、清掃、街路樹の植樹を行った。しかし1968年、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に通うアフリカ系アメリカ人学生の小さな社会と警官の間に多くの事件があり、またリチャード・ニクソンが大統領に選ばれたことで、アイラビスタにとっては負のスパイラルが始まり、1970年の冬と春には3回の暴動にまで発展した。アイブイリーグはあまりに穏健と見なされ影響力を失った。 1970年2月25日、エンバルカデロ・デル・ノルト935にあったバンク・オブ・アメリカ支店ビルが学生達によって全焼させられた。これは石を投げた学生が警官を町から追い出した後のことだった。FBIでの経歴について「ディープ・カバー」を書いたクリル・ペインによると、FBIはサンタバーバラで大変活動的であり、バンク・オブ・アメリカを燃やすことになった学生を告発したのは、対敵諜報活動プログラムだったと言っている。暴動の間にバンク・オブ・アメリカに火を点けた学生ケビン・モーランは1970年4月に警官の銃撃で殺され、1970年6月にあった暴動ではロサンゼルス郡保安局が荒れ狂い、保守派のコメンテーターであるウィリアム・F・バックレー・ジュニアですら批判することになった。 1970年7月4日から5日の夜、いずれかの時点で、カリフォルニア大学サンタバーバラ校キャンパスポイントに近い浜辺で寝袋に寝ていた3人が、斧あるいはマチェーテとナイフで武装した男3人に襲われた。2人の犠牲者は現場で死に、3人目のトマス・M・ヘイズが何とか生き残って、警官に攻撃者の少なくとも1人はアジア人だったと告げた。金や宝石は取られなかったので金目当ての犯行ではなかった。1970年2月から1972年6月の間に近くの浜辺で5件の殺人事件が発生し、そのうち3件はサンタバーバラで、2件はアイラビスタでだった。 1970年代初期、州当局が自治体諮問委員会を創設し、都市部における不穏な状態を扱うこととした。これは未編入の町に擬似的な代表を作って政策決定にあたらせ、標準的な自治体サービスを行わせることである。サンタバーバラは州内でそのやり方を行う最初の郡になった。 アイラビスタ自治体諮問委員会は1971年初期に最初の選挙を行い、学生町から9人の住民を選出し、郡が出す運営費で政府を作った。この諮問委員会は1973年、1975年、さらに1985年にアイラビスタを法人化しようとしたが、すべて地方機関形成委員会が否決して成功しなかった。委員会は最終的に解体された。 1970年代、今はなくなったアイラビスタ・コミュニティカウンシルが大学によって作られた。カウンシルは独自の選挙を行い、町の焦点になった。 多くの代替組織が創設された。例えばハイト・アズベリー無料医院に次いで州内2番目の無料医院があった。アイラビスタ・レクリエーションと公園地区は1972年に設立され、アイラビスタでは2つ目の特別地区になった(1つ目は衛生地区)。アイラビスタ食料生活協同組合が創設されたのも1970年代であり、地域に根差す会員制の信用協同組合が設立された。コミュニティカウンシルは、動物コントロールなど様々なサービスを行ったが、これらのプロジェクトは郡政府からの資金援助がなかったので消失した。 幾つかの事業も始められた。ポール・オーファリーは1970年にアイラビスタでキンコーズを設立した。歯医者、宝石商、美容院など伝統的な事業が町から出て行った。周りの町から切り離され、長い間にアイラビスタで広い範囲の事業が消えて行った。 アイラビスタは大きな範囲をカバーするゴリータ水道地区にかなりの影響力を持っている。ゴリータの非成長政策時代を先導する役割を果たした。これは成長を望んだ時代もあったゴリータの保守的な票田に対抗したものだった。ゴリータ住民は次第に非成長政策に移って来たが同時にアイラビスタを避けるようにもなった。 1970年代からアイラビスタはカリフォルニア大学サンタバーバラ校と、近くのサンタバーバラ・シティ・カレッジの学生が人口の多くを占めるようになっていった。カリフォルニア大学が入学者数を増やし、比較的裕福な学生の経済力が学生ではない住人を追い出すことになった。1960年代後半の混乱で、かつては学生の時間を占有した組織だった行動の筏を壊し、その空隙を自由な形態のパーティシーンで埋め、アイラビスタの南にある崖の上の通り、デル・プラヤ・ドライブで金曜と土曜の夜に集まる若者の群れになった。 1976年後半と1977年初期、アイラビスタの若い女性3人が誘拐され殺された。これらの殺人によって、女性に対する暴力に反対する大きなデモに発展し、アイラビスタに住む若者を運ぶ良い機関が好まれるようになった。
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1960年代と1970年代
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「FCディナモ・ブカレスト」の記事における「1960年代と1970年代」の解説
1961-62シーズンのチームにはイリエ・ダトク、ステファン、ウングロユなどが在籍しており、ニクショル・ドゥミトル・ネデレスク監督の下で 2回目のリーグ優勝を飾った。1962-63シーズンにはリーグ戦2連覇を果たした。1963-64シーズンにはクパ・ロムニエイで決勝に進出し、ライバルのFCステアウア・ブカレストを5-3で下して2回目の優勝を飾った。UEFAチャンピオンズカップではアルフレッド・ディ・ステファノ擁するレアル・マドリード(スペイン)と対戦。ブカレストのスタディオヌル・リア・マノリウで行われた試合にはスタジアム記録となる100,000人もの観客を集めた。1964-65シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは「グランデ・インテル」と呼ばれたインテル(イタリア)と対戦し、ルイス・スアレス、ジャチント・ファッケッティ、サンドロ・マッツォーラなどと対面したが、2試合合計0-7で完敗した。同シーズンのリーグ戦では4連覇を果たした。1965年にはミルチェア・ルチェスクなどを獲得し、UEFAチャンピオンズカップでは2シーズン連続でインテルと顔を合わせたが、ホームゲームでは2-1で勝利するなど善戦した。 1970-71シーズンには6回目のリーグ優勝を飾った。1971-72シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でFCスパルタク・トルナヴァ(スロベニア)を下したが、2回戦でフェイエノールト(オランダ)に敗れた。1972-73シーズンにはFCウニヴェルシタテア・クラヨーヴァなどを突き放し、7回目のリーグ優勝を果たした。1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、1回戦でクルセイダーズFC(北アイルランド)を2試合合計12-0で破った。ホームで行われたセカンドレグでは11点差 (11-0) の勝利を記録し、同大会におけるクラブ史上最大得点差記録として現在も残っている。2回戦ではハビエル・イルレタなどを擁するアトレティコ・マドリード(スペイン)と対戦し、2試合合計2-4で敗れた。1974-75シーズンはUEFAカップに出場し、1回戦でボルスポル(トルコ)を退けたが、2回戦で1.FCケルン(西ドイツ)に2試合合計3-4で敗れた。リーグ戦では8回目の優勝を果たし、32得点を挙げたドゥドゥ・ゲオルゲスクがヨーロッパ・ゴールデンシュー(ヨーロッパ全体の得点王)に輝いた。1976-77シーズンのUEFAカップでは1回戦でファビオ・カペッロなどが在籍していたACミラン(イタリア)と対戦し、2試合合計1-2と健闘した。リーグ戦では9回目の優勝を果たし、47得点を挙げたゲオルゲスクが2度目のヨーロッパ・ゴールデンシューに輝いた。1977-78シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦でアトレティコ・マドリードと対戦し、ホームで行われたファーストレグには2-1で勝利したが、アウェーでは0-2で敗れ、2試合合計2-3で敗退となった。1979-80シーズンのUEFAカップ1回戦ではアルキ・ラルナカFC(キプロス)を2試合合計12-0で下し、2回戦ではブルーノ・ペッツァイなどが牽引したアイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)と対戦。ファーストレグに2-0で勝利したが、セカンドレグに0-3で敗れて敗退した。
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