1960年代後半
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「TBSラジオ エキサイトベースボール」の記事における「1960年代後半」の解説
1965年、木曜のスポンサーが大関酒造に変更。また、同年5月2日にTBSラジオをキー局とするネットワーク組織「Japan Radio Network」(JRN)が発足した事に伴い、中継カードによりJRN系列全国ネット番組としての役割も担うこととなる。10月10日をもって『日曜薄暮ゲーム』の放送を終了。 1966年4月には、『月曜ナイター』(げつようナイター。ロッテの一社提供)も開始し週6回となる。また、試合のない場合の予備枠として、20:00まで『ナイタージョッキー』、それ以降は『○曜リクエストジョッキー』 を設けた。土曜ナイターのスポンサーから資生堂が外れ別の複数社による提供となる。 1967年には、放送時間を18:25 - 21:30に変更。試合のない日は、19:30までは『ナイタージョッキー』、20:00までは『○曜リクエストパレード』、それ以降は『ミュージックワイドショー』(月・日)『歌謡曲ワイドショー』(火)『ポピュラーワイドショー』(水・土)『ヒットワイドショー』(木)を放送していた。また、この頃より番組表では『プロ野球ナイター実況中継』(プロやきゅうナイターじっきょうちゅうけい)という総称が使われた。スポンサーは、月曜が東鳩製菓、土曜は前年複数社の一つだったトヨタ自動車販売の一社となり、日曜のスポンサー名義が黄桜酒造に変更された。 1968年は、18:40 - 21:40に変更。18:50までは『プロ野球デスク』(プロやきゅうデスク)として内包。試合のない日は、20:00まで『ナイタージョッキー』、21:00までは月・日曜が『演芸バラエティ』火曜が『お笑いバラエティ』水・木・土曜が『ミュージックバラエティ』、21:40までは月・日曜が『爆笑ジョッキー』火曜が『歌謡ジョッキー』水曜が『こりゃまたジョッキー』木曜が『おかしなジョッキー』土曜が『まじめなジョッキー』をそれぞれ編成していた。月曜のスポンサーは複数社となった。 1969年は、『金曜ナイター』を開始。全曜日編成となった。10月5日をもって、『TBSナイター』としてのレギュラー放送を終了。 TBSエキサイトナイター愛称エキサイトナイター ジャンルプロ野球中継 放送方式生放送 放送期間1970年4月12日 - 1999年10月2日 放送時間火 - 日曜 18:00 - 試合終了 放送局 日本 東京放送 ネットワークJRN テーマ曲『コバルトの空』 特記事項:1.『TBSラジオエキサイトナイター』または『ステレオ・エキサイトナイター』(1992年 - 1995年)とも表記。2.1979年 - 1981年の巨人戦については、ラジオ関東(1981年10月よりRFラジオ日本。以下、RF)と共同制作しており、RFの解説者やアナウンサーが出演する場合もあった(TBSラジオの解説ないしはアナとの共演含む)。 テンプレートを表示
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1960年代後半
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「ワンボックスカー」の記事における「1960年代後半」の解説
小型トラックのセミキャブオーバーからキャブオーバースタイルへの移行期にあたり、エンジン配置をリアエンジンやキャブオーバーとするなど、各社が様々な構成のトラックをベースにバン(パネルバン)、コーチ(ワゴン)を展開する。 1966年、マツダ・ボンゴがリアエンジン方式(水冷・4ストローク・縦置き)のキャブオーバースタイルで誕生する。3列シート8人乗りのコーチを擁し、ワンボックスカーという呼称が生まれていなかった当時、ワンボックスカー全体が'"ボンゴ型車"'と呼ばれるほど代表的な存在となった。1967年、トヨタ・ミニエースがキャブオーバー(空冷・4ストローク・縦置き)構成で発売され、翌1968年(昭和43年)には、3列シート7人乗りのコーチを追加する。1968年、三菱・デリカがキャブオーバー(水冷・4ストローク・縦置き)構成で発売され、翌1969年には、3列シート9人乗りのコーチを追加する。このキャブオーバー(水冷・4ストローク・縦置き)、運転席下の前輪という構成が、その後のワンボックスカーのスタンダードとなる。1969年、ダットサン・サニーキャブ/日産・チェリーキャブがキャブオーバー(水冷・4ストローク・縦置き)構成で発売され、3列シート8人乗りのコーチを擁する。前輪位置を車体前部(運転席足下)としホイールベースが長いのが特徴である。
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1960年代後半
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「日本における被死刑執行者の一覧」の記事における「1960年代後半」の解説
1968年は死刑執行が行われていない。 事件名(仮名または氏名)事件発生日一審判決二審判決最高裁判決執行日備考1969年(18人執行)バー・メッカ殺人事件(正田昭) 1953年7月27日 1956年12月15日 1960年12月21日 1963年1月25日 1969年12月9日 アプレゲール犯罪の代表格のひとつとされている。
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1960年代後半
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「ブルーインパルス」の記事における「1960年代後半」の解説
当初は訓練空域が今ほど飛行場から遠くはなく、錬度の維持が行いやすかった。そのため演技の精度は高く、さらに規制も緩やかだったために展示飛行での高度が低かった。その高度の低さは、課目「ハイスピード・ローパス」を例にすると高度35フィート(約11メートル)というもので、「草をむしりとった」という逸話さえある。なお、1965年(昭和40年)から単独機のパイロットを務めた経験のある村田博生は「舞い上がった草の切れ端が翼についていただけ」としている。 1965年1月に築城基地から第33飛行隊が浜松基地に移転の上第1航空団所属となり、さらに同年11月20日には第2飛行隊が解隊となった ため、ブルーインパルスのパイロットは全員が第1飛行隊所属となった。また、チーム制式名も「特別飛行研究班」から「戦技研究班」に変更となった。この年はパイロットのメンバー交代や補充もあり、各ポジションに2名ずつパイロットを配置することが可能となった。なお、この時期に第1航空団戦技研究班のインシグニアが作成されているが、作成したのは当時ブルーインパルスのパイロットだった村田博生1尉である。同年7月25日には松島基地の航空祭において、ブルーインパルスとしては通算100回目の展示飛行が行われた。しかし、同年11月24日にはアクロバット飛行訓練中に1機が失速して墜落、パイロットが殉職するという、ブルーインパルスでは2度目の事故が発生した。 その後も活動は続けられ、1969年(昭和44年)9月7日の丘珠航空祭において、通算200回の展示飛行を達成した。この頃になると航空自衛隊の航空祭以外にも、1966年(昭和41年)11月6日に入間基地で開催された「第1回航空宇宙ショー」において展示飛行を行う など、イベントにおいて展示飛行を要請されることが増え、自衛隊のイメージアップという当初の目的は実を結びつつあった。その一方、1967年(昭和42年)頃からは浜松基地周辺における宅地化の進展に伴い、騒音問題が発生していたため、訓練空域を海上に移さざるをえなくなった。
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1960年代 後半
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「森雅之 (俳優)」の記事における「1960年代 後半」の解説
1965年(54歳) 新派初春公演 「寒菊寒牡丹」 - 浅野 役 / 「不如帰」 - 川島武男 役(1965年1月、新橋演舞場)作・演出:川口松太郎、共演:花柳章太郎 / 演出:里見弴、共演:水谷八重子 ※ 尊敬していた花柳章太郎が公演中に倒れて逝去、最後の共演となる。1967年まで本格的に新派に活動の場を移す 花柳章太郎追悼・春の新派祭 「うすゆき川」 - 信次郎 役 / 「河の女」 - 能登茂 役 / 「命なりけり」 -鳥居正直 役(1965年2月、明治座)作・演出:北條秀司、共演:市川翠扇 / 作:田中澄江、演出:田中千禾夫、共演:水谷八重子 / 原作:丹羽文雄、脚色:川口松太郎、演出:程島武夫、共演:水谷八重子 演舞場四十周年記念公演 「己が罪」 - 桜戸隆弘 役 / 「つきぢ川」 - 石黒徹 役 / 「風流深川唄」 - 長蔵 役(1965年3月、新橋演舞場)演出:大江良太郎 共演:市川翠扇 / 作・演出:川口松太郎、共演:山田五十鈴 / 作:川口松太郎、演出:大江良太郎、共演:山田五十鈴 ※ 入院した水谷八重子の代役として新派に出た山田五十鈴と共演 新派五月公演 「春の嵐」 - 唐沢貞夫 役(1965年5月、新橋演舞場)作:水木洋子、演出:梅本重信、共演:京マチ子(特別出演) 新派公演 「割れしのぶ」 - 良観 役 / 「女将」 - 貞次郎 役 (1965年7月、明治座)作・演出:花登筺、共演:水谷良重 / 作・演出:北條秀司、共演:山田五十鈴 新派水谷八重子全快記念公演 「にごりえ」 - 源七 役 / 「名妓勝負」 - 南郷文夫 役(1965年9月、新橋演舞場)作:樋口一葉、脚色:真山青果、共演:花柳喜章 / 作:川口松太郎、演出:松浦竹夫、共演:水谷八重子 新派十月公演・水谷八重子全快記念 「炎と土と」 - 青木填一 役 / 「女人哀詞 唐人お吉」 - 鶴松 役 / 「浅草の灯」 - 山上七郎 役(1965年10月、新橋演舞場)作・演出:中野実、共演:伊志井寛 / 作:山本有三、演出:松浦竹夫、共演:水谷八重子 / 作:浜本浩、脚色:中野実、演出:高田保、共演:長本幸子 秋の新派祭 「あざやかな女」 - 小椋正一郎 役(1965年11月、明治座)脚本:秋元松代、演出:松浦竹夫 1966年(55歳) 新派初春公演 「新篇 すみだ川 花ぐるまの巻」 - 山岡俊之 役 / 「上陸第一歩」 - 坂田市太郎 役 / 「新篇 すみだ川 春うたげの巻」 - 山岡俊之 役(1966年1月、新橋演舞場)作:川口松太郎、演出:榎本滋民、共演:水谷八重子 / 作:北村小松、演出:村山知義、共演:水谷良重 / 作:川口松太郎、演出:榎本滋民 花柳章太郎追悼公演 「女難花火」 - 花柳章太郎 役 / 「浮気の手帖」 - 久保田章三 役(1966年3月、新橋演舞場)原作:花柳章太郎、脚色:川口松太郎、演出:里見弴、共演:花柳喜章 / 作・演出:花登筺、共演:水谷良重 ※ 花柳章太郎の伝記「女難花火」で花柳を演じる 鴈治郎特別出演・新派文芸公演 「氷点」 - 辻口啓造 役(1966年5月、新橋演舞場)原作:三浦綾子、脚色:田中澄江、演出:田中千禾夫 新派大阪公演・花柳章太郎追悼公演 「老夫婦」 - 三田村小五郎 役 / 「氷点」 - 辻口啓造 役(1966年6月、新歌舞伎座作:川口松太郎、共演:大矢市次郎 / 5月公演と同じ 新派公演 「女と沓下」 - 藤本泰彦 役 / 「夜の鶴」 - 朝蔭信 役(1966年9月、新橋演舞場)作・演出:菊田一夫、共演:山田五十鈴 / 原作:芝木好子、脚色:村山知義、演出:松浦竹夫、共演:阿部洋子 新派公演 「白鷺」 - 稲木順一 役 / 「明治の雪 樋口一葉の生涯」 - 半井桃水 役(1966年11月、新橋演舞場)原作:泉鏡花、脚本・演出:川口松太郎、共演:水谷八重子 / 作・演出:北條秀司、共演:水谷八重子 1967年-1969年(56歳-58歳) 新派公演 「花の生涯」 - 長野主膳 役(1967年3月、新橋演舞場)原作:舟橋聖一、演出:今日出海、共演:水谷八重子 新派五月特別興行 「女舞」 - 西川昌三 役(1967年5月、新橋演舞場)原作:円地文子/秋元松代、脚本・演出:北条誠、共演:淡島千景 ※ 恋に溺れる能楽師の退廃さを演じた 東宝現代劇 「浮雲」 - 富岡兼吾 役(1967年11月-12月、芸術座)原作:林芙美子、脚本:八住利雄、演出:菊田一夫、共演:有馬稲子 ※ 新派を離れて東宝現代劇と専属契約を結んだ第1作。映画から13年振りに富岡を演じる 東宝現代劇 「腕くらべ」 - 吉岡 役(1968年1月-2月、芸術座/3月、名鉄ホール)原作:永井荷風、演出:観世栄夫、共演:岡田茉莉子 東宝現代劇・名作公演 「第七天国」 - ブリサック 役(1969年4月-5月、芸術座)作:オースチン・ストロング、演出:戌井市郎、共演:横沢祐一 「癩王のテラス」 - 宰相スールヤバッタ 役(1969年7月、帝国劇場)作:三島由紀夫、演出:松浦竹夫、製作:菊田一夫、共演:北大路欣也/山田五十鈴/岸田今日子
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