もの派
もの派
【英】:MONO SCHOOL
1960年代後半から70年代にかけて、日本で独自に展開した運動。土、石、木、鉄などの素材にあまり手を加えず、ほとんど直接的に提示する立体構成を行った一連の作家につけられた名称。1968年に関根伸夫が、公園の大地に円柱形の穴を堀り、その土を用いて同形の円柱を立てる「位相−大地」を発表し大きな衝激を与えた。やや遅れて、斎藤義重の影響下から、小清水漸、菅木志雄など多くの作家が輩出。理論的支柱となった季禹煥は、ハイデッガーの存在論などを参照しつつ、西欧近代批判を軸とした「世界−構造」理論等を積極的に発表し、菅木志雄は「もの」の放置の状態を問題とする理論を展開。一方、高山登と榎倉康二は、枕木、廃油、布、紙、コンクリート塊などの物質性を強調する作品を制作。彼ら「もの派」初期の仕事は、1960年代初頭に登場した田中信太郎、高松次郎や、一部の概念的傾向の作家にも影響を広げた。1980年代にも「もの派」抜きには考えられない作品が多く発表されており、戦後日本美術における重要な動向の一つといえよう。
もの派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/10 03:31 UTC 版)
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「もの派」は、1960年代末に始まり、1970年代中期まで続いた日本の 動向現代美術の大きな動向(アート・ムーブメント、芸術運動)である。

概要
石、木、紙、綿、鉄板、パラフィンといった〈もの〉を単体で、あるいは組み合わせて作品とする[1]。それまでの日本の前衛美術の主流だった反芸術的傾向に反撥し、ものへの還元から芸術の再創造を目指した。「もの派」の命名者は不明。1968年に関根伸夫が『位相—大地』を発表し、李禹煥がそれを新たな視点で評価し、理論づけたことから始まる。このふたりが始めた研究会に、関根の後輩である吉田克朗、成田克彦、小清水漸、菅木志雄(いずれも多摩美術大学の齋藤義重(斎藤義重)教室の生徒)が参加し、さらに他の大学の榎倉康二・高山登、原口典之らも加わり作品を発表した[2]。
『美術手帖』1970年2月号が「発言する新人たち」という特集を組み、座談会に「李+多摩美系」が顔を揃えた(ただし本田眞吾は欠席)。これが事実上の「もの派宣言」といえる。しかしかれらは自主企画展を行うことなく、1970年夏ごろからそれぞれの作風に分散していった。
脚注
参考文献
- 峯村敏明 『彫刻の呼び声』 水声社、2005年。ISBN 4891765704
- 椹木野衣 『日本・現代・美術』 新潮社、1998年。ISBN 4104214019
- 千葉成夫 『現代美術逸脱史』 晶文社、1986年。ISBN 4794937628
- 李禹煥 『出会いを求めて—現代美術の始源』 美術出版社、2000年。ISBN 4568201632
- 彦坂尚嘉 『反覆/新興芸術の位相』 田畑書店、1974年。
- 秋丸知貴 「関根伸夫《位相‐大地》論――観念性から実在性へ」『美術評論+』2024年3月20日公開。
関連項目
外部リンク
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