親日派
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親日派(しんにちは)とは、一般に、日本や日本人や日本文化に好意的な言動を示す外国人[1] のこと。この意味における「親日派」については「親日」「知日派」を参照のこと。
- ^ 趙廷来が2020年10月、文壇デビュー50周年の記者懇談会で「日本留学に行ってきたら親日派になる」と語ったことことを報じたニュース記事に対する読者のコメントには「もう少し話を飛躍すれば、満州(国外)に行って独立運動せず、日帝治下で生活したすべての朝鮮人をみんな親日派とすることもできる」というものがあった。また、朝鮮半島が日本の統治から解放された後、金九派のある幹部が国内の民族主義指導者らとの会合で「国外で独立運動に献身した者の以外は、就中、日帝治下の朝鮮半島で生きていた者なんぞは、全員親日派だ」と国内諸派を非難した[15]。
- ^ 例えば親日派と認定された洪思翊の長男である洪国善は早稲田大学を卒業後、朝鮮銀行に勤務していたが、当時の李承晩大統領の直接命令により、辞職させられている。
- ^ 関連文書では当初反民族行為とあり親日派という表現とはなっていない[16]。
- ^ 自動翻訳では일빠が日派と翻訳されることがあるが、빠(ppa, bba)は猛烈ファン、激烈ファンを卑下して呼ぶスラングで、파=派のような党派、グループ、派閥の意味は無い。詳しくはko:빠参照。
親日派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 23:24 UTC 版)
金智泰の財産蓄積過程は次のようなものであった。 金智泰は日本統治時代の朝鮮において最も悪辣な農民収奪機関のひとつであった東洋拓殖の釜山支店に入社し、4年間勤務した。 この間、金智泰は東洋拓殖で熱心に仕事をして過労となり、肺結核にかかって5年足らずで辞職することになったが、10年分割償還という条件で同社の蔚山(ウルサン)農場の土地2万坪の払い下げを受けた。 この土地で収穫した稲は、分割償還金を返しても毎年100石以上が残り、さらに、その土地を担保として資金を調達することも可能であった。1935年、金智泰は釜山の凡一洞(ポミルトン)に、製紙会社の朝鮮紙器株式会社を設立した。 この会社は日本の大陸侵略戦争にともなう軍需物資市場の拡張に乗じて急速に業績を伸ばした。 金智泰はこうして集めた資金で1943年に日本人が経営していた朝鮮鋳鉄工業合資会社を買収し、1949年には「敵産企業」だった旭絹織(朝鮮絹織株式会社の前身)の管理人を引き受けることになった。 1954年には、履き物製造工場としては当時韓国最大規模であった三和(サムファ)ゴムを買収し全国10大財閥の隊列に加わった。 企業経営を続けながら、金智泰は釜山日報と釜山文化放送を買収し、第2代および第3代国会議員(釜山甲選挙区選出)を務めた。1958年、金智泰は後の正修奨学会の前身である釜日奨学会を設立した。金智泰は1962年5月に軍事政府によって不正蓄財者に指定され、拘束された。 疑惑の内容は密輸入、国内財産海外逃避、農地証明書虚偽作成などだった。 当時、検察部が懲役7年を求刑したが、釜日奨学会の基盤だった釜山の西面(ソミョン)一帯の土地10万坪の献納と引き換えに公訴が取り下げられ、解放された。1982年に死去した。73歳没。
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