親日政権下での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/22 14:48 UTC 版)
同年12月、王克敏が中華民国臨時政府を組織すると、呉賛周もこれに加わった。翌年2月に、維持会が改組され、正定県政府が成立すると、呉は県知事となっている。同年秋、冀南道尹公署道尹に昇進した。1939年(民国27年)6月、河北省省長高凌霨が辞任すると、呉が後任の河北省省長に任命されている。 1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に合流しても、呉が引き続き河北省長をつとめた。あわせて華北政務委員会委員に任命されている。河北省省長には、1943年(民国32年)2月28日まで在任した(後任は杜錫鈞)。河北省長を退いた後に、高等警官学校校長に任命され、中将の位を授与される。1945年(民国34年)、職を辞し、天津永利化学公司董事長に転じた。 日本敗北後、呉賛周は国民政府により漢奸として逮捕され、北平で収監される。しかし国民政府において、裁判を受けることはなかった。中国人民解放軍が北平を接収して後に、人民法院により審理され、呉は無期懲役の判決を受ける。 1949年10月2日、呉賛周は癌のため獄中で死去した。享年65(満64歳)。
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