親日政府での活動
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同年12月、王克敏が中華民国臨時政府を樹立すると、殷同もこれに参加した。翌年3月、建設総署長官に任命されている。汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立する直前の1940年(民国29年)3月22日に、殷は華北政務委員会常務委員兼建設総署督弁に任命された(3月30日、南京国民政府は正式成立)。 翌年4月、殷同は中央政治委員会第2期延聘委員も兼任する(第3期でも同職に就く)。このほかにも、華北交通株式会社副総裁、新民会副会長、籌堵黄河中牟決口委員会主任委員、華北河渠委員会委員長などを歴任(兼任)している。1942年(民国31年)12月30日、心臓病に伴う尿毒症の併発により北京特別市で死去。享年54(満53歳)。
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親日政府での活動
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1937年(民国26年)12月、王蔭泰は王克敏らの中華民国臨時政府に参加し、実業部総長に就任した。1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘(汪精衛)らの南京国民政府と合流すると、王蔭泰は華北政務委員会常務委員兼実業総署督弁に任ぜられている。1943年(民国32年)11月、華北政務委員会農務総署督弁兼総務庁庁長となる。1945年(民国34年)2月、王克敏の後任として華北政務委員会委員長に昇進した。 日本敗北後の1945年(民国34年)12月5日、王蔭泰は漢奸として国民政府に逮捕され、翌1946年(民国35年)10月8日、南京高等法院で死刑判決を宣告される。しかし1947年(民国36年)12月に、最高法院の上訴審で無期懲役に減刑され、上海で収監された。中華人民共和国建国後も上海で収監され続けている。1961年12月15日、獄中で病没。享年76。
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親日政府での活動
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日本軍が青島を占領した後の1938年(民国27年)1月17日、姚作賓は青島治安維持会の9人の委員の1人となる。同年11月2日、青島治安維持会学務委员会が成立すると、姚が委員長を務め、翌月10日には青島興亜倶楽部副会長も兼任している。1939年(民国27年)1月10日、親日の青島特別市公署が成立すると同市社会局局長に任命され、同年5月10日には青島特別市工商連絡委員会委員長も兼任している。1943年(民国32年)3月18日、姚は市長に昇進し、汪兆銘政権崩壊まで同職に在った。 1945年(民国34年)10月11日、姚作賓は漢奸として国民政府に逮捕され、翌年5月に山東省高等法院青島第二分院で死刑判決を受けたが、執行はされず、1949年(民国38年)1月に改めて同法院で審理され無期懲役に減刑された。その後、中国人民解放軍が進軍してきたため国民政府により釈放されたが、青島が陥落した直後の6月5日に中国共産党に再逮捕されている。中華人民共和国建国後に青島中級人民法院で死刑判決を受け、1951年に執行された。享年59。
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親日政府での活動
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1936年(民国25年)5月、王揖唐は親日の蒙古軍政府に参加し、実業署署長に任命された。日中戦争(支那事変、抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)12月14日に、王克敏が北平(北京)で中華民国臨時政府を組織する。王揖唐もこれに参加し、議政委員会常務委員、賑済部総長、内政部総長を歴任した。1939年(民国28年)9月からは、汪兆銘(汪精衛)を支持してその政権への参加交渉に従事した。 1940年(民国29年)3月の南京国民政府成立と共に、王揖唐は考試院院長兼華北政務委員会委員となる。6月には華北政務委員会委員長に就任した。さらに、中央政治委員会委員、内務総署督弁にも任じられている。1943年(民国32年)1月、最高国防会議議員、全国経済委員会副委員長、新国民促進委員会委員(後に常務委員)となった。 日本が敗北した後の1945年(民国35年)12月5日に王揖唐は北平の病院で逮捕される。当初、王は重病とみなされて裁判にかけられなかったが、後にその仮病が発覚するなどして翌1946年(民国35年)9月に裁判に付されることになった。 河北高等法院で死刑が言い渡された後、南京首都高等法院で当該判決が確定する。1948年(民国37年)9月10日、漢奸の罪により北平の監獄で銃殺刑に処せられた。享年72(満70歳)。
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親日政府での活動
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1930年(民国19年)、閻錫山・馮玉祥らが蔣介石に挑戦すると、斉燮元もこれに参加し、江北招撫使に任命された。しかし、閻・馮は敗北し、斉は天津のイギリス租界に逃げ込む。さらに北平に移り、隠居した。 1937年(民国26年)12月、王克敏らが中華民国臨時政府を創設すると、斉燮元もこれに参加し、治安総長に任じられた。このほかにも、清郷総署督弁、議政委員会常務委員も兼ねている。 1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)らの南京国民政府に臨時政府が合流し、華北政務委員会が成立する。斉燮元は同委員会委員兼治安総署督弁に任ぜられた。これにより、華北綏靖軍を組織して、その総司令部総司令に就任している。また、軍事委員会常務委員にも兼ねている。1943年(民国32年)2月、華北政務委員会内政総署督弁に就任し、諮議会議副議長も兼ねた。 日本が敗北した1945年(民国34年)8月に、斉燮元は漢奸として国民政府に逮捕される。1946年(民国35年)12月18日、南京において銃殺刑に処された。享年62(満61歳)。
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