閻錫山
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閻 錫山(えん しゃくざん、1883年10月8日〈光緒9年9月8日〉 - 1960年〈民国49年〉5月23日)は、中華民国の軍人・政治家。字は伯川。号は龍池。
- ^ 徐珌鴻(1999)、369-370頁。
- ^ a b c d e 徐友春主編(2007)、2647頁。
- ^ a b c d e f g h i 劉国銘主編(2005)、2030頁。
- ^ 一時、山西陸軍小学の教官や監督を務める。
- ^ 「協」は、清末の新軍の編成単位。旅団に相当。
- ^ 「標」は、清末の新軍の編成単位。「標」は連隊に、「標統」は連隊長に相当。
- ^ 徐珌鴻(1999)、370-373頁。
- ^ 1915年(民国4年)に袁世凱が皇帝に即位した際にもこれに賛同し、閻錫山は一等侯に封じられている。
- ^ 鉄道建設、教育機関の充実などの功績は高く、現在でも山西庶民の間で評価されている。
- ^ 1930年11月に下野してから1932年3月に復権するまでの期間を除く。
- ^ 徐珌鴻(1999)、376-377頁。
- ^ 徐珌鴻(1999)、377-378頁。
- ^ 中国国民党中央政治会議常務委員、党政治会議太原分会主席、国民政府軍事委員会委員等にも任命されている。
- ^ 以後第4期でも中央執行委員、第5期・第6期では中央常務委員にそれぞれ選出。
- ^ 代理として趙戴文を派遣した。
- ^ 徐珌鴻(1999)、379-380頁。
- ^ 一時、馮玉祥に与して反蔣介石に転じる動きも見せたが、1930年(民国19年)1月に陸海空軍副総司令に任命されたため、親蔣介石派に留まった。
- ^ 蔣介石が、自分の権力剥奪を狙っていると確信したためという。
- ^ 徐珌鴻(1999)、380-381頁。
- ^ 同時期に起こった綏遠事件では、傅作義率いる晋綏軍が日本の支援を受けた内蒙軍を撃退している。
- ^ 徐珌鴻(1999)、381-384頁。
- ^ 日本軍が傀儡政権として樹立した汪兆銘政権(南京国民政府)の山西省政府は、蘇体仁ら閻錫山の腹心が長を務めており、戦争中も密かに閻錫山と提携している。
- ^ 徐珌鴻(1999)、384-391頁。
- ^ 徐珌鴻(1999)、391-394頁。
- ^ 中華民国憲法第49条の規定に基づく措置。在職期間は1949年11月20日から1950年2月28日まで。
- ^ “我如滄海一粟,漂到台湾——専訪閻錫山秘書原馥庭先生”. 山西新聞网. (2012年4月14日) 2018年3月13日閲覧。
- ^ 徐珌鴻(1999)、394頁。
- ^ 徐友春主編(2007)、2647-2648頁。
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