閻行
字は彦明。金城の人。韓遂の女婿。後に「閻豔」と改名する《張既伝》。 若いころから勇名を馳せ、初めは小将として韓遂に付き従った。建安年間(一九六~二二〇)の初め、韓遂と馬騰が攻撃しあったとき、馬騰の子馬超にも勇名があったが、閻行は馬超を突き刺し、矛が折れてしまうと、その柄で馬超のうなじを殴り、殺す寸前だった《張既伝》。 同十四年、韓遂は閻行を曹操への使者に立てた。曹操は彼を厚遇し、上表して犍為太守にしてやった。閻行は自分の父を宿衛の任務に入れて欲しいと請願した。西方に帰って韓遂に会うと、曹操の言葉を伝えた。「文約(韓遂)に謝辞を伝える。卿(おんみ)が始めて兵を起こしたのは追い詰められたからであった。我(わたし)がつぶさに明らかにしておいた。早く来なさい。一緒に国家・朝廷を補佐しよう」。ついでに閻行は言った。「閻行は将軍が挙兵してから三十年余りも尽くしてきました。民衆も軍兵も疲労し、領土も狭くなっています。速やかに自分から味方すべきです。それゆえ鄴に行ったとき、老父を京師(みやこ)に行かせることを自分から申し出たのです。将軍も一子を出して忠誠心を示されませ」。韓遂は「数年のあいだ様子を見よう」と言ったが、のちには閻行の父母とともに一子を人質に出すことにした《張既伝》。 韓遂は西方に行って張猛を征伐したとき、閻行に本営の留守を任せた。ところが馬超らが叛逆を企て、韓遂を都督に祭り上げることにした。韓遂が帰国すると、馬超は彼に向かって「以前、鍾司隷(鍾繇)は馬超に将軍を討ち取らせようとしました。関東の人間はもう信用できません。いま馬超は父を棄てて、将軍を父と仰ぎます。将軍も子を棄てて馬超を息子だと思ってください」と言った。閻行は馬超と合力しないようにと諫めたが、韓遂は「いま諸将は相談していないのに意見が一致した。それが天命であるようだ」と言って聞き入れなかった《張既伝》。 そこで東方に進軍して華陰に到達した。韓遂は曹操と馬を交えて語り合うことになったが、閻行が彼の後ろに控えているのを見て、曹操は彼を眺めながら「孝子になることを考えなさい」と言った。馬超らが敗走すると閻行も韓遂に付き従って金城に帰ったが、曹操は閻行の気持ちを知っていたので、京師にいた韓遂の子孫を処刑しただけだった《張既伝》。 曹操は自ら筆を執って閻行に手紙を送った。「観察してみると、文約のやっていることは笑いぐさだぞ。吾(わたし)は前後して彼に手紙をやって抜かりなく説明したのに、こんな風だともう我慢できない。卿の父は諫議(大夫)として無事である。しかし牢獄の中は親を養う場所ではないぞ。それに国家としても長いあいだ他人の親を養うことはできないのでな」。韓遂は閻行の父親だけが安泰であると聞き、(我が子と)一緒に殺させることによって彼に二心を抱かせまいと考えた。そこで無理やり末女を閻行に嫁がせると、閻行は断り切れなかった。はたして曹操は閻行を疑い始めた《張既伝》。 建安十九年(二一四)、ちょうど閻行は韓遂の指示で西平郡を宰領しているところだったので、そのまま彼の部曲を率いて韓遂と攻撃しあった。閻行は勝つことができず、家族を引き連れて東方へ行き、曹操のもとに出頭した。曹操は上表して彼を列侯に封じた。翌二十年、夏侯淵が軍勢を引き揚げたとき、閻行が留守を守った。韓遂らが羌族・胡族数万人を率いて攻撃をしかけてくると、閻行は逃げようとしたが、たまたま韓遂は部下に殺害された《張既伝》。 【参照】夏侯淵 / 韓遂 / 鍾繇 / 曹操 / 張猛 / 馬超 / 馬騰 / 華陰県 / 関東 / 鄴県 / 金城郡 / 犍為郡 / 西平郡 / 諫議大夫 / 侯 / 司隷校尉 / 太守 / 都督 / 羌族 / 胡族 / 小将 / 部曲 |
閻行
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閻行 | |
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後漢 犍為太守・列侯 | |
出生 |
生没年不詳 涼州金城郡 |
拼音 | Yán Xíng |
字 | 彦明 |
別名 | 閻艶 |
主君 | 韓遂 → 曹操 |
閻 行(えん こう、生没年不詳)は、中国後漢末期の人物。別名は閻艶。字は彦明。涼州金城郡の出身。
略歴
屈強な男との評判が若い頃からあり、はじめは韓遂に部下として採り立てられた。
建安年間の初頭、韓遂と馬騰の間で涼州を巡って争いが起こっていた。このとき、同じく強者として名高かった馬超を殺しかけた[1]。
197年、韓遂と馬騰の争いを憂慮した曹操が鍾繇を長安に派遣し、両者の調停にあたらせて和睦を結ばせた。
209年、涼州に残った韓遂の使者として、曹操の元を訪れた。賓客としてもてなされ、曹操の上奏によって犍為[2]太守に任命された[3]。閻行側からは、曹操に朝廷内で老父の身元引き受けの便宜を図るよう持ち掛け、その約束を取り付けさせている。帰還した閻行は「涼州は軍民ともに疲弊しているので、曹操に早く帰順するべきである」と提言した。さらに続けて「私は実父を曹操に預けると決めました。韓遂殿も息子を人質として差し出し、帰順を打診してはどうか」と進言した。韓遂はこれらの提案を受け入れた。
この頃、張猛が反乱を起こしたので、韓遂は討伐に出陣し、閻行に留守を任した。出先から戻ってきた韓遂は、待ち構えていた馬超達に曹操への謀反の企みを聞かされると、その場で同調してしまい、盟主として擁立された。話を耳にした閻行が諌めたが、韓遂は馬超との盟約と曹操への反逆を考え直すことは無かった。
211年、曹操との戦いが始まると、韓遂は華陰という場所で曹操と会談の席を設けた。この時、閻行は韓遂の護衛として離れた所から様子を伺っていた。会談の最中、曹操は閻行に対して「(長安に居る老父に)孝行する事を考えるべきだ」と声をかけた[4]。これらの事が発端となり、馬超と韓遂は仲違いを起して曹操に敗れた。閻行は敗走する韓遂に従って、金城に逃げ帰った。
曹操は、韓遂から人質として預けられていた彼の子や孫を殺害した。一方、閻行はいずれ自身に靡くと考えていたので、彼の父親を殺す事はせず、一筆したためて説得しようとした。それを耳にした韓遂は「閻行と自分の末の娘を娶わせ、彼を娘婿にしよう。そうしてしまえば、曹操は疑念を抱き、閻行の父を殺すに違いない。閻行も父を殺されれば、曹操の下に赴こうなどとは考えないだろう」と考え、嫌がる閻行を末の娘と無理やり婚姻させてしまった。
韓遂の思惑通り、曹操が閻行に疑念を抱いたので、閻行の父親は危険に晒される事となった。
214年、韓遂はそのような事をしておきながら、閻行に別軍を率いさせ西平郡の統治を一任した。閻行は謀反し、韓遂の首を曹操への手土産にするつもりで戦いを挑んだ[5]。しかし、韓遂が羌族の庇護を求め、羌族がそれを受け入れたために彼を討つ事を諦め、そのまま妻子を引き連れて曹操に降った。曹操は朝廷に上奏して、閻行を列侯に採り立てた。
215年、曹操は漢中侵攻に備え、夏侯淵の軍を涼州から引き揚げる事を決定し、閻行を韓遂に対する備えとした。
後に、韓遂が羌族など異民族の軍勢数万人を率いて逆襲を謀ると、恐れた閻行は城を捨てて逃げることを考えた。しかし、韓遂が交戦を前にして部下の裏切りにより殺害された[6]ので、閻行は難を逃れる事が出来た。
以降、史書において彼の記述は確認できない。
以上は、『三国志』魏書張既伝に、裴松之によって『魏略』から引用され、追記された記述が基となっている。
また、小説『三国志演義』には登場しない。
注釈
- ^ その様子は「閻行は馬超を矛で突き刺そうとこころみたが、その矛が折れてしまったので、残った柄で馬超の首を打ちつけ、殺すところであった」と書かれている
- ^ 犍為の犍は、「牛」偏に「建」の旁による部首で構成された文字
- ^ この当時、犍為一帯は劉焉の後を継いだ劉璋が領有している。曹操が漢中の張魯攻略を計画している事を差し引いても、閻行が太守として即座に就任するのは不可能である
- ^ この会談は、賈詡が考案して曹操に採用された離間策の一環として行われた策である
- ^ 韓遂は閻行の裏切りを知ると、成公英に対し「この苦境に付け込む輩が、まさか身内から生じようとは」と言っている
- ^ 王修伝・注『魏略』の郭憲伝では、病死した後に功績目当ての部下によって首を切られたとされる
出典
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」2巻、井波律子・今鷹真 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年01月、336頁。ISBN 4-480-08042-2
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」3巻、今鷹真 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992年12月、123-127頁。ISBN 4-480-08043-0
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」8巻、小南一郎 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992年07月、229-231頁。ISBN 4-480-08089-9
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