夏侯淵とは? わかりやすく解説

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夏侯淵Xiahou Yuan

カコウエン

(?~219
征西将軍・仮節・博昌亭愍侯

字は妙才。沛国譙の人。夏侯惇族弟にあたり、妻は太祖曹操)の妻の妹であった

太祖無官のとき、役所事件引っかかったことがあり、夏侯淵が身代わりとして重罪引き受けた太祖手立て尽くして救出したので、助かった。兗・予州大混乱して飢饉陥ったとき、夏侯淵は自分幼子見捨てて死んだ弟の遺した女児救命した。

太祖挙兵してからは別部司馬騎都尉となって従軍陳留潁川太守昇進した官渡において袁紹戦ったときには督軍校尉行った袁紹撃破されたのち、兗・予・徐州軍糧監督した。そのころ本軍食糧は不足ぎみであったが、夏侯淵が次から次へ輸送していったので、軍はまた勢い取り戻したのである

昌豨反乱起こしたとき、于禁がその攻撃派遣されたが陥落させられなかった。改めて夏侯淵が派遣され于禁合力するよう命じられた。そして昌豨攻撃して余り屯営降服させると、昌豨于禁のもとへ参詣して降服した。夏侯淵は帰還すると典軍校尉拝命した。夏侯淵は将軍となって以来勝機に目ざとく迅速に移動し、いつでも敵の不意を突くであった。そこで軍中では彼について「典軍校尉夏侯淵、三日五百六日一千」と語っていた。

済南楽安黄巾賊徐和・司馬倶らが城郭攻撃し長吏殺害すると、夏侯淵は泰山斉国平原の郡兵を率いて攻撃し大い打ち破って徐和を斬首した。諸県平定し、彼らの食糧没収し兵士給養した。

建安十四年(二〇九)、夏侯淵に領軍を行わせた。太祖孫権征討から引き揚げるとき、夏侯淵に諸将監督させて廬江謀叛人雷緒攻撃させた。雷緒打ち破ったのち、また征西護軍を行わせ、徐晃監督して太原賊徒攻撃させた。二十余り屯営陥落させ、賊の総帥商曜を斬首、その居城を屠った。韓遂らの征伐従軍して渭水南岸戦った。また朱霊監督して隃麋・汧の氐族平定し安定にて太祖合流して楊秋降服させた。

十七年、太祖は鄴へ帰還したが、夏侯淵に護軍将軍を行わせ、朱霊路招らを監督させて長安に屯させた。南山賊徒劉雄撃破し、その軍勢降服させた。韓遂馬超残党である梁興を鄠で包囲し、これを陥落させて梁興斬首し、博昌亭侯に封ぜられた。

馬超が冀城にいた涼州刺史韋康包囲すると、夏侯淵は韋康救援しようとしたが、韋康到着待たず敗北した。(夏侯淵は)冀城から二百里余手前にいたが、馬超押し下って迎撃してくると、戦いは不利となり、汧の氐族反逆したので、夏侯淵は軍勢まとめて引き揚げた。

十九年、趙衢・尹奉らが馬超討伐計画し西城挙兵した姜叙と通謀馬超だまして姜叙攻め出撃させ、その後方で馬超妻子を残らず殺した馬超漢中脱走したが、また戻ってきて祁山包囲した。姜叙らは慌てて(夏侯淵に)救援要請してきた。諸将太祖ご命令を待つべきだと主張したが、夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復千里返事待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろうと言い出陣した

西城」は原文鹵城」。『集解に従って改める。漢陽郡西県である。「西」の古字「卥」を誤ったもの。

張郃に歩騎五千監督させて先発とし、陳倉隘路から進入させ、夏侯淵自身後方にいて食糧輸送監督した張郃渭水のほとりまで来ると、馬超氐族羌族数千人を率いて待ちかまえていたが、まだ戦闘にもならぬうちに馬超逃走した張郃軍勢進めて馬超軍武器回収した。夏侯淵が到着するころには諸県はすっかり降服していた。

夏侯淵は顕親にいる韓遂襲撃しようとしたが、韓遂逃走したので、夏侯淵は韓遂軍の食糧接収しつつ略陽城まで追撃した韓遂軍まで二十里余りまで迫ったとき、諸将攻撃主張したり、あるいは(その前に興国氐族攻撃すべきだと言う者もあった。

夏侯淵は考えた。「韓遂軍勢精強興国城郭堅固攻撃してもすぐに陥落させることはできない長離羌族どもを攻撃するに越したことはない長離羌族どもは多く韓遂軍に加わっておるゆえ、きっと自分たちの家族救援しようとするだろう。もし羌族単独防戦するならば孤立であるし、(韓遂が)長離救援すれば官軍野戦持ち込んで手取りできよう。」

夏侯淵は督将を残して輜重車を守らせ、軽装の歩騎で長離行って羌族屯所焼き払い斬首捕虜極めて多数上った韓遂軍中羌族たちはおのおの種族部落へと帰り韓遂果たし長離救援しようと夏侯淵軍と対峙した。諸将韓遂大軍であるのを恐れ陣営築いて塹壕掘ってから戦いたい思ったが、夏侯淵は「我ら千里転戦してきたから、今また陣営塹壕を築くとなると士卒たちは疲弊して持ちこたえられまい。賊軍大勢であるが与しやすいのだ」と言い太鼓打って韓遂軍を大破、その旌麾を奪い略陽引き返して興国包囲した。氐王の千万馬超のもとへ逃れ残りはみな降服した転進し高平の屠各を撃つと、みな散りぢりになって逃げたので、その食糧牛馬手に入れた。夏侯淵に節を仮した。

むかし枹罕宋建涼州混乱乗じて河首平漢王」と自称していた。太祖は夏侯淵に諸将率いさせて宋建討伐することにした。夏侯淵は到着するなり枹罕包囲し一ヶ月余り陥落させて宋建および彼の任命した丞相以下を斬首した。夏侯淵は別働隊として張郃らに河関平定させた。(張郃が)黄河渡って湟中に入ると、河西羌族たちが残らず降服したので、隴右はすっかり平定された。太祖布令下して言った。「宋建反逆をなして三十年余りになるが、夏侯淵は一度行軍滅ぼしてしまった。関右を虎のごとく歩いて向かうところ遮る者なし。仲尼孔子)も言った。『吾と爾でも(顔回には)敵わない』、と。」

二十年所領三百戸を加増して都合八百戸とした。(枹罕から)引き返して武都氐族羌族および下弁攻撃し氐族から食糧十万余り没収した

太祖西進し張魯征討したとき、夏侯淵らは涼州諸将・侯王以下を連れて休亭で太祖合流した太祖羌族・胡族を引見するたびに夏侯淵の名を出して畏怖させた。ちょうど張魯降服して漢中平定されたので、夏侯淵に都護将軍を行わせ、張郃徐晃らを監督させて巴郡平定した。太祖は鄴へ引き揚げるとき、夏侯淵を残して漢中を守らせ、このとき夏侯淵を征西将軍任命した

二十三年劉備陽平関に着陣したので、夏侯淵は諸将率いてそれを防ぎ対峙したまま年を越した二十年正月、劉備夜中に(夏侯淵軍の)陣営逆茂木焼き払った。夏侯淵は張郃東方陣営を守らせ、自分では軽装兵連れて南方陣営守った劉備張郃戦い挑み張郃軍が不利になったので、夏侯淵は麾下半数分けて張郃救援に向かわせた。そこを劉備襲撃され、夏侯淵はついに戦死した。諡を愍侯という。

はじめ、夏侯淵はたびたび勝利を重ねていたのだが、太祖はいつも「将軍ともなれば時に怯懦であらねばならぬ。ただ武勇のみを当てにしてはならぬぞ。将軍たる者は武勇根本となすべきだが、その行動智略をもってせよ。ただ武勇任せにするばかりでは一介匹夫標的なるだけだぞ」と戒めていた。

曹操軍中下した命令書に言う。「夏侯淵は今月賊軍逆茂木焼き払ったため、逆茂木本営から十五里も離れていたのに、兵士四百人を引き連れて逆茂木ところへ行き兵士補修させた。賊軍山上から遠望しており、谷間から突然に飛び出してきた。夏侯淵は兵士たち賊軍戦わせつつ、そのまま迂回して彼らの背後突いたが、兵士たち後退し、夏侯淵は帰ってこなかった。なんと痛ましいことか。夏侯淵はもともと用兵が得意でなかった。軍中では彼を『白地将軍』と呼んでいたのである。督帥になれば自分では戦闘さえしてはならぬものだ。それなのに逆茂木補修するとは!」《集解

参照韋康 / 尹奉 / 于禁 / 袁紹 / 夏侯惇 / 韓遂 / 顔回 / 姜叙 / 孔子 / 司馬倶 / 朱霊 / 徐晃 / 徐和 / 昌豨 / 商曜 / 千万 / 宋建 / 曹操 / 孫権 / 張郃 / 張魯 / 趙衢 / 馬超 / 楊秋 / 雷緒 / 劉備 / 劉雄 / 梁興 / 路招 / 安定郡 / 渭水 / 潁川郡 / 兗州 / 河関 / 河西 / 下弁県 / 漢中郡 / 官渡 / 関右 / 冀県 / 祁山 / 休亭 / 鄴県 / 汧県 / 顕親県 / 鄠県 / 黄河 / 興国 / 高平県 / 譙県 / 小湟中 / 徐州 / 西県 / 斉国 / 済南国 / 太原郡 / 泰山郡 / 長安県 / 長離 / 陳倉県 / 陳留郡 / 南山 / 巴郡 / 沛国 / 博昌亭 / 枹罕県 / 武都郡 / 平原郡 / 渝麋侯国(隃麋侯国) / 陽平関 / 予州 / 楽安国 / 略陽県 / 涼州 / 隴右 / 廬江郡 / 河首平漢王 / 仮節 / 騎都尉 / 護軍将軍 / 刺史 / 丞相 / 征西護軍 / 征西将軍 / 太守 / 亭侯 / 典軍校尉 / 督軍校尉 / 都護将軍 / 愍侯 / 別部司馬 / 領軍 / 諡 / 羌族 / 行 / 黄巾賊 / 長吏 / 氐族 / 屠各 / 白地将軍


夏侯淵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/25 22:33 UTC 版)

夏侯淵
の時代に描かれた三国志演義の挿絵
後漢
征西将軍
出生 生年不詳
豫州沛国譙県
死去 建安24年(219年正月
定軍山
拼音 Xiàhóu Yuān
妙才
諡号 愍侯
別名 白地将軍[1]
主君 曹操
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夏侯 淵(かこう えん、? - 建安24年(219年正月)は、中国後漢末期の武将。妙才夏侯惇族弟(遠縁の従弟)にあたる。正妻は曹操の妻の妹。甥は夏侯尚。子は夏侯覇夏侯威ら。玄孫(夏侯威の孫娘の子)に東晋の元帝がいる。『三国志志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

軍の拠点間における迅速な移動や、それに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とした。その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた(『魏書』)。

生涯

諸将を指揮監督

曹操が県の長官に関する事件で罪を受けた時、その身代わりを引き受けた。その後、曹操に救出され、刑罰を免れることができた。

兗州豫州が混乱すると、飢饉の中で夏侯淵は自分の幼い子を捨てて、死んだ弟の娘を養育したという(『魏略』)。

曹操が兵を挙げると別部司馬・騎都尉として従い、やがて陳留や潁川の太守に任命された。

袁紹との官渡の戦いの時は行督軍校尉となり、袁紹を破った後は兗州・豫州・徐州の兵糧を監督した。

昌豨が謀反を起こすと、張遼と共にこれを討伐し苦戦したが、張遼が昌豨を説得し降伏させた。

その後、再び昌豨が謀反を起こすと、曹操は于禁臧覇を鎮圧に派遣したがやはり苦戦した。夏侯淵は増援として派遣されると、昌豨の陣営10余りを陥落させたため、昌豨は于禁に降伏を申し出てきた。夏侯淵は帰還後に典軍校尉に任命された。

済南と楽安の黄巾の徐和・司馬倶が反乱を起こし、城を攻撃して県の高官を殺害すると、夏侯淵は臧覇や呂虔と共に(「臧覇伝」「呂虔伝」)泰山・斉・平原の郡兵の指揮を執りこれを攻撃、大いに打ち破り、徐和を斬り諸県を平定、食糧を没収し兵士に配った。

建安14年(209年)、中領軍の史渙が亡くなったため、行領軍に任命された。曹操が孫権征伐から帰還した時、夏侯淵は諸将を指揮監督して廬江雷緒を破った。

行征西護軍に任命され、徐晃と共に太原の賊を攻撃し、20余りの屯営を陥落させ、頭目の商曜を斬首し、城砦を破壊した。

涼州を平定

建安16年(211年)7月から9月にかけて、反乱を起こした韓遂馬超らの征伐に従軍し、渭南において戦った(潼関の戦い)。朱霊と共に、隃麋・汧の族を討伐した。11月、曹操と安定で合流し楊秋を下した。12月、安定から長安に帰還した。

建安17年(212年)1月、曹操はに帰還し、夏侯淵を行護軍将軍として長安に駐屯させた。夏侯淵は朱霊・路招を率い南山の劉雄を撃破してその兵を降伏させた。さらに張郃・徐晃と共に鄜の梁興を斬り、武都の氐族や夏陽の賊を降伏させた。

再起した馬超が冀城に籠る涼州刺史韋康を攻撃した為、夏侯淵は軍を率い救援に向かったが、到着する前に馬超は韋康を騙して冀城を陥落させていた。自軍が冀城から200里余りの地点まで迫ったところで馬超が迎撃に来たため、交戦したが敗北し、さらに馬超に呼応して汧の氐族が反乱を起こしたため、軍をまとめて帰還した。

建安19年(214年)、韋康の部下であった趙衢・尹奉らは復讐の為に馬超討伐を計画し、姜叙が西城で挙兵してこれに応じた。趙衢らは馬超を騙して姜叙攻めに出撃させ、馬超の妻子を殺害した。馬超は漢中へ脱走したが、張魯に兵を借り、戻ってきて祁山を包囲した。姜叙らは夏侯淵に助けを求めたが、諸将は曹操の命令を待つべきだと何度も意見した。しかし夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復四千里、返事を待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろう」と言い、出陣した。

夏侯淵は張郃に先行させ、自らは兵糧を監督した。馬超は数千の氐族と羌族を指揮して迎撃しようとしたが、結局戦わずして逃走した。張郃は進軍して馬超軍の物資を収容し、諸県を全て下した。

馬超を涼州から駆逐した夏侯淵は韓遂に狙いを定め、顕親に駐屯していた韓遂を攻撃してこれを逃走させ、その兵糧を奪った。さらに韓遂を追撃し、略陽城に達した。諸将は韓遂もしくは興国の氐族を攻めるべきと意見したが、夏侯淵は韓遂の兵が精強であり、興国城は堅固であることから、まず長離で韓遂に味方する羌族を攻めることで、韓遂を孤立か野戦の二択に追い込むという作戦を立てた。

夏侯淵は督将を留めて兵糧を守らせ、軽装の歩兵と騎兵のみで長離を攻撃し、火計を仕掛けて非常に多くを斬首・捕獲した。韓遂軍の羌族はそれぞれ自分の居住地に帰還し、韓遂も長離の救援に駆けつけてきた。諸将は堀と塹壕を掘って備えるべきと主張したが、夏侯淵は短期決戦に利があると主張し、士気を鼓舞して韓遂を大破し、その旗印を奪い取った。夏侯淵は一度略陽に帰還し、進軍して興国を包囲した。氐族の王の千万は馬超の元に逃亡し、その部下たちは夏侯淵に降伏した。夏侯淵は更に高平の屠各を攻撃し、敵を蹴散らして食糧と牛馬を手に入れた。

このように夏侯淵は涼州の馬超・韓遂らの勢力を壊滅させて、涼州を平定した[2]。仮節を与えられた。

枹罕の宋建は以前から独立勢力を築き、河首平漢王と称していたが、夏侯淵は曹操の命令で枹罕を包囲し、1ヶ月でこれを陥落させ、宋建とその一味を斬った。張郃に別働隊の指揮を執らせて河関を陥落させ、黄河を渡って小湟中に侵入すると、河西の羌族はことごとく降伏し、隴西は平定された[3]

長安に帰還すると、武都の氐族・羌族を攻撃し、氐族の食糧を10万石没収した[4]。曹操が漢中の張魯を征伐すると、夏侯淵は涼州の将軍や侯や王以下の官吏を引き連れ休亭で曹操と合流した。曹操は羌族と交渉するときは、いつも夏侯淵の名を脅しに使った。

建安20年(215年)、漢中の張魯が曹操に降伏すると行都護将軍に任命され、張郃や徐晃と共に巴中を平定した[5]。曹操が鄴に帰還すると、征西将軍に任命され、漢中の守備をまかされた[6]

建安21年(216年)、曹操は宋建らを征伐した功績を称し、夏侯淵の封邑を300戸増加したので、合計800戸となった。

定軍山に散る

張魯の降伏後、劉備は侵攻して漢中を奪取し、そこを拠点にさらに北上して曹操を滅ぼすという戦略の下、漢中攻撃を開始した。夏侯淵は指揮下の張郃や徐晃、益州刺史に任命された趙顒を巧みに繰り出し、劉備軍と一進一退の攻防を数年に渡り続けた。夏侯淵が指揮を執る兵は甚だ精強であったという[7]

しかし曹操陣営の中で漢中は遠く孤立しており[8]、やがて巴郡を奪回され、建安23年(218年)には劉備軍が陽安関(陽平関)に達するなど、徐々に追い詰められていった。

建安24年(219年)正月、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。劉備が夜間に攻撃を開始すると、夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分は南方の陣営を守ったが、張郃が苦戦したため自分の兵の半分を援軍に向かわせた。劉備は法正の策に従い、夏侯淵の本営より15里離れた鹿角(逆茂木)を焼き払った。夏侯淵は兵士400人を引き連れて自ら逆茂木の修復にあたったが、黄忠は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃した。夏侯淵は黄忠の軍を迂回することに成功したが、背後からの攻撃に失敗して趙顒とともに戦死した。享年は不明だが50歳半ばだった。張飛の夫人は夏侯淵の戦死を知ると、願い出て彼を埋葬した。

夏侯淵が宋建を斬った際には曹操は「虎の如く関右(潼関の西)を駆け、向かうところ敵無し」とこれを賞賛した。一方で曹操は、夏侯淵が戦勝していても尚「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と、その増長を戒めていた。夏侯淵戦死の報を受けた曹操は「夏侯淵はもともと戦の駆け引きを得意としておらず、味方から白地将軍と呼ばれていた。司令官たるもの自ら戦ってはいけないのに、ましてや鹿角(逆茂木)を修繕するとは」と嘆いた[9]愍侯

正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には夏侯淵も含まれている(「斉王紀」)。

『三国志演義』における夏侯淵

小説『三国志演義』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。汝南の劉備攻撃では劉備に味方した黄巾残党の龔都を討ち取っている。さらに銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露した。曹操は、定軍山での彼の戦死を聞いて嘆き悲しみ、そして鹿角の補修に自ら出かけるなど、軽率な行動に激怒している。

家系図

 
 
夏侯惇
 
夏侯充
 
夏侯廙
 
夏侯劭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯楙
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯子臧
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯子江
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯廉
 
 
夏侯佐
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯淵
 
夏侯衡
 
夏侯績
 
夏侯褒
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯覇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯称
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯威
 
夏侯荘
 
夏侯湛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯栄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯恵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯尚
 
夏侯玄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
夏侯儒
 
 
夏侯徽
 
 
 


宗族

    • 夏侯衡 - 長男。曹操の弟の海陽哀侯の娘を娶る。太和年間に関内侯の爵位を賜り、父の死後、安寧亭侯を継ぐ。彼の死後、その子・夏侯績が跡を継いだ。
    • 夏侯覇(仲権) - 次男。司馬懿のクーデターで蜀に亡命。
    • 夏侯称(叔権) - 三男(『世語』による)。16歳で虎を射殺する武勇を見せたが、18歳で逝去。
    • 夏侯威(季権) - 四男。司馬懿に背いた兄・仲権と異なり、クーデター後も司馬氏に重用される。
    • 夏侯栄(幼権、207年-219年) - 五男(『世語』による)。定軍山の戦いで父が戦死すると、その後を追い討死した。
    • 夏侯恵(稚権) - 六男。文才に優れる。
    • 夏侯和(義権) - 七男。弁舌に優れる。
    • 張飛妻 - 夏侯覇の従妹、一説に「夏侯淵の亡き弟の娘」は同一人物。
    • 夏侯績 - 夏侯衡の子。
    • 夏侯駿 - 夏侯威の長子。
    • 夏侯荘(仲容) - 夏侯威の次子。
  • 曾孫
    • 夏侯湛(孝若) - 夏侯荘の長子。『魏書』を編纂。
    • 夏侯淳(孝沖) - 夏侯荘の次子。
    • 夏侯琬 - 夏侯荘の子。
    • 夏侯瑫 - 夏侯荘の子。
    • 夏侯謨 - 夏侯荘の子。
    • 夏侯総 - 夏侯荘の子。
    • 夏侯瞻 - 夏侯荘の子。
    • 夏侯光姫(銅環) - 夏侯荘の娘、夏侯湛の姉妹。東晋の元帝・司馬睿の生母
    • 夏侯褒 - 夏侯衡の孫

脚注

  1. ^ 「魏武軍策令」
  2. ^ 「武帝紀」214年正月
  3. ^ 「武帝紀」214年冬10月
  4. ^ 「武帝紀」215年3月
  5. ^ 「武帝紀」によると11月。
  6. ^ 「武帝紀」によると12月。
  7. ^ 「黄忠伝」
  8. ^ 「張既伝」「和洽伝」
  9. ^ 『軍策令』

夏侯淵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 21:42 UTC 版)

三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「夏侯淵」の解説

曹操一族武将で、夏侯惇従兄弟

※この「夏侯淵」の解説は、「三国志 (横山光輝の漫画)」の解説の一部です。
「夏侯淵」を含む「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事については、「三国志 (横山光輝の漫画)」の概要を参照ください。

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