費詩
劉備が益州に入ったとき緜竹県令だったが、攻撃を受ける前に降伏した。益州が平定されると督軍従事に任じられる。一時外に出て牂牁太守となり、再び中央に戻って益州前部司馬に任命された。 劉備は漢中王になると関羽を前将軍に任じて辞令を費詩に届けさせた。しかし関羽は黄忠が後将軍になったと聞くと立腹して「老人とは決して同列にならぬぞ」と言った。費詩は諫めて言うに「むかし蕭何・曹参は若いころから高祖劉邦に仕えておりましたが、後から陳平・韓信がやってきて上位に就いたとき恨みごとは言いませんでした。漢中王と関羽殿は一心同体の間柄ですのに、官位の高低を気にして辞令をお受けにならないのは残念に思います」と。関羽は悟り、すぐさま拝受した。 劉備を帝位に推そうとする議論が起こると、費詩は反対し、永昌従事に左遷された。 のちに諸葛亮は孟達を味方に付けようと言った。費詩は反対して「孟達は小人物であり、劉璋に仕えて忠節を尽さず、また後に劉封と仲違いして叛逆しました。手紙を出す価値はありません」と言上した。しかし諸葛亮は未練を断てず、孟達に手紙を送った。たびたび連絡を取り合ったすえ孟達は魏に叛こうとしたが、司馬懿に襲撃されて殺された。諸葛亮もまた孟達を信頼できないと考えるようになっていたので救援しなかった。 蔣琬が国政を任されるようになると、費詩を諫議大夫に任命したが、費詩は自邸で亡くなった。 【参照】関羽 / 韓信 / 黄忠 / 司馬懿 / 諸葛亮 / 蕭何 / 曹参 / 陳平 / 孟達 / 劉璋 / 劉備 / 劉邦 / 劉封 / 永昌郡 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 犍為郡 / 牂牁郡 / 南安県 / 緜竹県 / 王 / 県令 / 後将軍 / 前将軍 / 前部司馬 / 太守 / 督軍従事 / 部郡国従事(永昌従事) |
費詩
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費詩 | |
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蜀漢 諫義大夫 | |
出生 | 生年不詳 益州犍為郡南安県 |
死去 | 没年不詳 |
拼音 | Fèi Shī |
字 | 公挙 |
主君 | 劉璋→劉備→劉禅 |
費 詩(ひ し、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は公挙。益州犍為郡南安県の人。
事績
劉璋に仕えて綿竹県令を務めていたが、劉備が攻めて来ると率先して降伏し、その家臣となった。劉備が益州を平定すると、督軍従事に任じられる。その後、牂牁太守となり、さらに中央(成都)へ戻って益州前部司馬に任命された。
劉備が漢中王となると、費詩は関羽の下に派遣されて前将軍への任命を告げた。ところが、関羽は黄忠が後将軍に任命されたと聞き、「拙者があのような老いぼれと同格か」と怒った。費詩が「そもそも王者が任用するものは一人ではありません。かつて、高祖は古参の蕭何・曹参を差し置いて新参の韓信を最高位に就けましたが、彼らがそれを恨んだと聞いた事がありません。この度、黄忠殿は一時の功績によって出世しましたが、漢王(劉備)の君侯(関羽)に対する心中の評価が、どうして黄忠殿と同じでありましょうか。君侯と漢王は一心同体と言うべき間柄ですのに、位の上下などに拘っているのはいかがなものかと存じます」と説いたため、関羽は大きく感じ入って誤りを悟り将軍位を受けた。
建安25年(220年)、劉備が皇帝に擁立される段になると、費詩は上疏し
「殿下は曹操父子が主上(献帝)を脅迫して位を簒奪したため、万里の僻地に身を寄せ士人民衆を糾合し、賊を討伐しようとしております。今、大敵に勝利を得ないまま、まず自ら即位されるとなると、おそらくは人々の心に疑惑が生じましょう。昔、高祖は先に秦を破った者が王になるとの盟約を項羽と交わし、咸陽を落として子嬰を捕らえながら、なお王位を譲ろうとしたのです。ましてや、殿下は益州からお出にもならないうちに即位しようとなさっております。愚かなる臣(わたくし)は、殿下のために全く賛成できません」
と反対したため、劉備の不興を買って永昌郡部郡従事(州官、太守代行)に左遷された。しかし、費詩の才幹は蜀漢において貴重であったようで、建興3年(225年)の諸葛亮の南征において随従を認められた。
その後、諸葛亮は、魏に寝返った孟達を内応させようと手紙を送ろうとした。費詩は、孟達は小人物であり、手紙を出す価値などないと諌めた。諸葛亮はかまわず手紙を送り、何度か手紙をやりとりすると孟達は叛意を明らかにしたが、結局魏の討伐軍に敗れ殺害された。諸葛亮は孟達の誠意を疑ったため援軍を出さなかった。
諸葛亮の死後、蔣琬が執政を開始した時期にも費詩は存命であり、諫義大夫に任命されている。
『三国志』費詩伝の注に引く『蜀世譜』によると、子の費立は西晋の散騎常侍となった。費詩以降、益州の費氏で名声・位階を得た者の多くは彼の子孫だったという。ただし、『華陽国志』では、費立の父は別人の費揖としている[1]。
劉備への諫言をめぐる議論
習鑿歯は、費詩がなした劉備への諫言について以下のように述べた。
『そもそも創業の君主は、天下の平定を待った後、正しい地位に就くものであり、後を継ぐ君主は自分の立場を早く固めて、人々の心を繋ぎ止めようとするものである。それだからこそ、恵公が朝に捕虜となると夕には子の圉(懐公)が立ち、光武帝は更始帝の存命中に帝号を称した。そもそも彼らは主上を忘れて、自己の利益を追求したのであろうか。いや、社稷を考えればこそである。今、先主(劉備)は正義の兵を糾合して、逆賊を討伐しようとしているのだ。賊は強力であり災禍は甚大であって、主上は没し国家は滅亡して、二祖(前漢の高祖、後漢の光武帝)の廟は、断絶して祭られていない。いやしくも皇族の内の優れた人物でなければ、誰がこれを継承できるのか。先祖を継いで天子の位につくのは、咸陽(秦を滅ぼした高祖)の時と異なり、正義によって逆賊を討伐するのに、どうして譲る必要があろうか。この時に当たって、速やかに有徳の人物を尊んで王統を奉じさせ、民衆を心から正道に立ち戻らせ、世の人々に昔の制度を示し、正義に従う者の心を一つにさせ、正義に悖る者全てを恐れさせることを知らなかったとは、暗愚にして分別のない態度といってよかろう。費詩が左遷されたのは当然である。』
なお裴松之は、習鑿歯の論のうち、これが最も優れていると賞賛している。
物語中の費詩
小説『三国志演義』にも登場し、史実同様に、黄忠と同格にされて怒る関羽を諌め、五虎大将軍の地位を拝受させている。ただし、劉備の皇帝即位を諌めて左遷された経緯や、孟達内応策の諫止については触れられていない。
出典
- 陳寿撰、裴松之注『三国志』蜀書 費詩伝 s:zh:三國志/卷41#費詩
脚注
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