張翼
字は伯恭。犍為郡武陽県の人。高祖父は漢の司徒張浩、曾祖父は広陵太守張綱である。 劉備が益州を平定して益州牧となったとき書佐に任じられる。建安の末年に孝廉に推挙され、江陽県長となり、のち涪陵県令、梓潼、広漢、蜀郡太守と栄転していった。 建興九年(二三一)、張翼は庲降都督・綏南中郎将に任じられたが、その性格から、法律を厳格に適用するばかりで異民族の機嫌を取ろうとしなかった。そのため異民族の頭目劉冑が叛乱を起こし、張翼は軍を率いて鎮圧にあたったが、作戦途中で中央からお召しがかかった。部下たちは「急いで謝罪の意を示すべきです」と勧めたが、張翼は「いや、わしに蛮族懐柔の能力がないので任を解かれるだけのことだ。後任者のために兵糧の輸送・蓄積を行って置くべきで、免職を恐れて公務を投げ出すわけにはいかぬ」と言い、後任者の馬忠が来るまで指揮を採り続けた。丞相諸葛亮はそれを聞いて感心した。 諸葛亮は北伐にあたって張翼を前軍都督に任じ、扶風太守を兼ねさせた。諸葛亮が陣没すると前領軍に移り、劉冑討伐の功績により関内侯に封じられる。延煕元年(二三八)、中央に入って尚書に任じられ、間もなく督建威・仮節を加えられ、征西大将軍・都亭侯となった。同十五年、衛将軍姜維とともに成都に帰還した。 姜維が再び北伐を提案したとき、ただ一人張翼は国家の弱小と民衆の疲労を理由に反対した。姜維はこれを聞かず、張翼を鎮南大将軍に任じ、彼らを率いて北征の軍を起こした。姜維らは狄道に至って魏の雍州刺史王経を大いに破ったが、張翼は「追撃すべきではありません。進めば武功に傷が付きますぞ」と言った。姜維は腹を立てて聞かず、狄道城を包囲したが陥落させられなかった。こうして姜維は内心では張翼を疎んじるようになったが、遠征のときはいつも彼を引き連れ、張翼もやむを得ず従っていた。 景耀二年(二五九)に左車騎将軍・冀州刺史に昇進する。同六年、姜維に従って剣閣に駐屯し、ともに涪城にいた魏の鍾会に帰服した。ところが翌年の正月、鍾会は成都で叛逆し、張翼はその混乱の中で兵士に殺された。 【参照】王経 / 姜維 / 諸葛亮 / 鍾会 / 張浩 / 張綱 / 馬忠 / 劉冑 / 劉備 / 益州 / 冀州 / 魏 / 剣閣 / 建威 / 犍為郡 / 広漢郡 / 江陽県 / 広陵郡 / 梓潼郡 / 蜀郡 / 成都県 / 狄道県 / 涪県 / 扶風郡 / 武陽県 / 涪陵県 / 雍州 / 庲降 / 衛将軍 / 関内侯 / 県長 / 県令 / 孝廉 / 左車騎将軍 / 刺史 / 司徒 / 尚書 / 丞相 / 書佐 / 綏南中郎将 / 征西大将軍 / 前軍都督 / 前領軍 / 太守 / 鎮南大将軍 / 督 / 都亭侯 / 牧 / 庲降都督 / 仮節 / 推挙 |
張翼
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張翼 | |
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蜀漢 都亭侯・左車騎将軍・冀州刺史 |
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出生 | 生年不詳 益州犍為郡武陽県 |
死去 | 景元5年(264年)正月 |
拼音 | Zhāng Yì |
字 | 伯恭 |
主君 | 劉備→劉禅 |
張 翼(ちょう よく)は、中国後漢末期から三国時代の武将。益州犍為郡武陽県の人。字は伯恭。前漢の張良の子孫。高祖父は司空の張晧。曾祖父は広陵太守の張綱。祖父と父の名は不詳。子は張微。孫は張存。『三国志』蜀志に伝がある。
生涯
劉備が益州を平定し(入蜀)、益州牧を兼任したときに書佐として取り立てられた。その後、孝廉に推挙され、江陽県長・涪陵県令・梓潼太守・広漢太守・蜀郡太守と地方官を歴任した。
この間、沔陽県長であった頃、劉備の漢中攻め(定軍山の戦い)に参加し、趙雲の指揮下で曹操軍を大いに撃退したという(『三国志』蜀志「趙雲伝」の注に引く『趙雲別伝』)。
建興9年(231年)、庲降都督・綏南中郎将として南中方面を鎮守した。
しかし、法に厳格であったために異民族の反発を買い、233年、異民族の劉冑が反乱すると(『三国志』蜀志「後主伝」)、職務に耐えないと見做されて中央に召喚された。張翼は後任の馬忠が赴任するまで前線に留まり、兵糧の準備など軍備を充実させた。このため馬忠はそれに頼り、異民族の反乱を平定できた。諸葛亮はこの話を聞き、張翼に信頼を寄せた。
諸葛亮が武功に進軍したとき、前軍都督となり、扶風太守を兼務した。
諸葛亮の死後、前領軍となり、劉冑討伐の功績が評価され、関内侯に封じられた。
延熙元年(238年)には尚書となった。さらに、督建威・仮節に昇進し、都亭侯・征西大将軍に昇格した。
延熙18年(255年)、姜維が北伐を計画すると、これに強く反対したが容れられず、張翼も鎮南大将軍として北伐に従軍した。姜維は洮水において王経軍を大破した(狄道の戦い)。しかし、張翼はこれ以上の戦闘継続に反対し、戦果に傷がつかない内に撤退すべきだと述べた。これに対し姜維は腹を立てたが、張翼はなおも反対を続けた。結局、姜維は狄道城に籠った王経を包囲したものの、破ることはできなかった。これ以来、姜維は張翼のことを内心不快に思うようになったが、北伐の際は常に従軍を命じた。このため、張翼も仕方なくそれに従った。
景耀2年(259年)、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼務した。
景耀6年(263年)夏、魏の蜀侵攻が開始された。張翼は廖化・董厥と共に鍾会軍を迎撃するため陽安関へ向かったが(『三国志』蜀志「後主伝」及び「姜維伝」)、蔣舒の裏切りにより陽安関は陥落してしまった。このため陰平から敗走してきた姜維と共に、剣閣へ籠って鍾会軍を防いだ。しかし、剣閣を迂回した鄧艾軍により成都が降伏したため(『三国志』蜀志「後主伝」)、張翼は姜維と共に鍾会へ降伏し、随行して成都に戻った。
翌年正月、姜維と鍾会は鄧艾を罪に落とした上で、魏将を皆殺しにしてクーデターを起こそうとした。しかし、胡烈ら魏将の反撃に遭って討たれ、張翼もこれに巻き込まれて殺害された。
子の張微は西晋の広漢太守となったが、李特の反乱によって殺害された。
陳寿は、張翼が姜維の北伐に反対したことを称えている。
物語中の張翼
小説『三国志演義』では劉璋配下の武将として登場する。劉備が入蜀を開始すると、卓膺と共に劉璝らが守る雒城の救援部隊として派遣される。しかし、張任が捕らえられ卓膺が降伏すると、なおも抵抗しようとする劉璝を殺害して降伏した。その後は劉備・劉禅に仕え、諸葛亮に従い南征や北伐に参加する。諸葛亮の没後も主力武将として転戦するが、姜維と不仲になったという描写はない。最期は、蜀滅亡後の混乱で死去した人物の1人として名が挙がるだけである。
張翼
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「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「張翼」の解説
趙雲の部下として登場したのが初登場。南蛮遠征、北伐へと参加し、主力の部将の一人として活躍する。晩年、魏による蜀侵攻時に、姜維とともに剣閣で魏軍を食い止める老将として描かれた。
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