梁習とは? わかりやすく解説

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梁習Liang Xi

リョウシュウ
リヤウシフ

(?~230
大司農・申門亭侯

字は子虞。陳郡の人。

郡の綱紀であったが、太祖曹操)が司空になると、彼を召し出して漳の県長とした。乗氏海西下邳県令へと昇進重ねたが、至るところ治まった中央帰って西曹令史となり、西曹属に昇進した

西曹令史務めたときのこと、同僚王思という者がいた。王思当番の日、職務上の報告により太祖怒り買った太祖担当者召し取って重罰加えよう思っていたが、王思は出かけていて、梁習が代わりに出頭して逮捕された。王思駆け付け自分の罪を白状した。その罪は死刑相当したが、太祖は梁習が沈黙守ったこと、王思がけじめを付けたことに感歎して「吾が軍中義士二人もいたとはのう」と言った

幷州新たに帰服すると、梁習は別部司馬として幷州刺史を領(代行)した。このとき高幹起こした騒乱影響を受け、胡族・狄族が辺境にあって跳梁跋扈し、官吏民衆中には逃亡して彼らの部落身を寄せる者もあった。武装豪族軍勢擁して侵害をなし、互いに煽動くり返し私闘構えることもたびたびあった。

梁習は着任すると、そうした豪族たちを厚礼でもって招き入れ順番推挙して幕府参詣させた。豪族たちが片付くと、歳の順に徴兵して義従に組み込んだ。また大軍出征折りには、分隊して剛勇官兵になるように要請した。彼らが去ったのち、その家族少しづつ鄴へ移住させたが、前後しておよそ数万になった命令従わない者は軍勢催して討伐し、斬首した者は千単位帰服した者は単位であった

この辺り、やや難読。胡族らに追われ流民豪族部曲組み込まれ戸籍から把握できなくなっていたのを、大軍出征利用して豪族らの軍事力分散させ、弱体化したところで鄴へ強制移住させて、武装豪族解体するとともに戸籍再編入したということらしい。

単于恭順示して名王平伏し部曲も、戸籍編入されている者と同様に職務就いた辺境静まり百姓たちは野に満ち農耕養蚕勤務させたところ、命令すれば行われ禁止すれば止まった推挙した名士はみな出世した太祖は彼を評価して関内侯爵位賜り改めて真(の刺史)とした。長老たち自分聞き知った刺史中でも梁習ほどの者はなかったと称賛した

建安十八年(二一三)、幷州冀州編入されたので、改めて議郎・魏郡西部都督従事任じられ冀州および従来部曲統括した。また上党への使者に立ち、鄴の宮殿供するための大きな木材を徴発した。屯田都尉二人設置して人夫六百人を宰領させ、道路沿いに豆・粟を植えて人畜費用充てるようにと上表した。

鮮卑大人育延はつねづね州から恐れられていたが、ある日、その部落五千余り連れて梁習の元へ参詣し交易したいと願い出た拒否すれば恨みを買うことになり、許可すれば州内略奪されやしないかと懸念されたが、梁習は許可下し空き城に出向いて面会のうえ取引することとし、郡県に命令出して、みずから治中以下の役人連れて行き軍勢持ち場に就かせた。

取引終わらぬうちに役人一人胡人逮捕したので、育延の騎兵はみな驚いて馬に乗り、弓をつがえて幾重にも梁習を取り囲んだ官吏民衆恐れおののいてなすすべ知らない。梁習はあわてる風なく市場担当役人呼び寄せて胡人逮捕した理由訊ねると、実際胡人他人に危害加えていたのであった。梁習は通訳通じて育延を呼び入れ、「汝ら胡人自分から法を犯したのだ。官吏が汝を侵害したけでないのに、汝はどうして騎兵使って騒動起こすのか!」と責めたて、彼を斬首した。残りはみな肝をつぶして身動きできなかった。それ以来侵害なくなった

二十二年、太祖漢中攻略し諸軍長安帰陣したとき、騎督である太原烏丸王の昔を池陽残して備えさせた。昔の愛妻晋陽住まいしており、昔は彼女を恋しがり、また帰国できないではないかと心配し、とうとう部下五百騎を率いて叛逆して幷州帰り騎兵山間残して自分はただ一騎晋陽潜り込んで愛妻連れ出した。州郡が気付いたときには彼はもう城外出たあとだったし、昔が弓術巧みであったため追跡できる者は官吏にも民衆にもなかった。

梁習はそこで従事張景に命じて鮮卑族募集し昔を追跡させた。昔の馬は妻を乗せていたため足取り重く、まだ部下軍勢合流できないでいた。そこで鮮卑射殺されのである太祖昔の叛逆聞いて北方混乱が起こるであろう危惧していたが、すでに彼が殺害されたと知って大い喜び、梁習が前後して策略立てたことを評価して関内侯封じたまた、単于入朝したとき西北憂慮がなかったのは梁習の功績である。

関内侯に封ぜられたとの記載重複している。

文帝践祚すると幷州復活されたので、再び刺史となり、申門亭侯に封ぜられた。食邑百戸である。治績はつねに天下第一であった太和二年(二二八)に中央徴され大司農任じられた。梁習は州にあること二十年余り、家は貧窮そのもので、地方珍品取り込むことはなかった。明帝はそれを立派に思いはなはだ手厚く賜り物下した。同四年、薨去した。

参照】育延 / 王思 / 呼廚泉単于) / 高幹 / 曹叡明帝) / 曹操 / 曹丕文帝) / 張景 / 昔 / 海西県 / 下邳県 / 漢中郡 / 魏郡西部 / 冀州 / 鄴県 / 柘県 / 章県(漳県) / 乗氏侯国 / 上党郡 / 申門亭 / 晋陽県 / 太原郡 / 池陽県 / 長安県 / 陳国陳郡) / 幷州 / 盧 / 関内侯 / 騎督 / 議郎 / 県長 / 県令 / 綱紀 / 司空 / 刺史 / 従事 / 西曹属 / 西曹令史 / 単于 / 大司農 / 治中従事 / 亭侯 / 都督従事 / 屯田都尉 / 別部司馬 / 名王 / 烏丸 / 義従 / 胡族 / 鮮卑族 / 大人 / 狄族 / 幕府 / 部曲 / 領


梁習

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 16:41 UTC 版)

梁習

大司農・申門亭侯
出生 生年不詳
豫州陳郡柘県
死去 太和4年(230年
拼音 Liáng Xí
子虞
主君 曹操文帝明帝
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梁 習(りょう しゅう、? - 230年)は、後漢末から三国時代にかけての武将・政治家。子虞。梁施の父。豫州陳郡柘県の人。

三国志志「劉司馬梁張温賈伝」に伝がある。裴松之によると、『魏略』では徐福厳幹・李義・張既游楚裴潜趙儼・韓宣・黄朗と同じ巻に収録されていたという(『三国志』魏志「裴潜伝」注)。

生涯

郡の綱紀であったが、曹操司空になると召し出されて漳県長となった。乗氏・海西・下邳の県令を累転し、所在で治名があった。

海西県令であった時、海西・淮浦の住民が反乱を起こしたので、都尉の衛弥と共に広陵郡の綱紀であった徐宣を救出した(『三国志』魏志「徐宣伝」)。

中央に戻って西曹令史となり、やがて西曹属に昇進した。同僚の王思が曹操の不興を買うと、不在だった王思の身代わりとなって出頭した。王思は駆け付けて罪を自白し、死刑を受けようとした。曹操は両者を義士であると感嘆した。

曹操は高幹に勝利して并州を支配下に置くと、梁習を別部司馬として并州刺史を代行させた。この時の并州は、高幹の影響で南匈奴が跳梁跋扈し、官吏民衆はその部落へ亡命し、更に武装豪族が割拠して争いを繰り返している有様だった。梁習は有力者達を厚く招聘し、幕府に推挙することで排除した。成人男子を義勇兵として徴用して曹操軍に組み入れ、その家族をへ移住させ、その数は数万口となった。命令に従わない者は武力で討伐し、4桁の首級と5桁の捕虜を得た。単于は恭順し、名王は平伏し、部曲は戸籍に編入されている者と同様に職務へ就いた。

こうして辺境は粛清され、百姓は野に満ちて農業に勤務し、禁令は行なわれた。梁習が推挙した常林楊俊王淩・王象・荀緯は、みな出世した(『三国志』魏志「常林伝」)。曹操は梁習を評価して関内侯の爵位を授け、改めて真の刺史とした。長老たちは、自分たちの聞き知る刺史の中で梁習に及ぶ者はいないと称賛した。

213年、并州と冀州が合併することになると、梁習は議郎・西部都督従事となり、元の部曲を統括した。上党へ使いし、鄴の宮殿へ大きな木材を徴発した。屯田都尉を2人置いて人夫600人を率いさせ、道路沿いに豆と粟を植えて人畜の費用に充てるようにと上表した。

并州で略奪を繰り返し恐れられていた鮮卑の育延を斬首し、残党を震え上がらせた。217年烏桓の魯昔が謀叛を起こすと、鮮卑を使ってこれを討ち取った(『魏略』)。

単于が入朝し、西北に憂慮が無くなったのは、梁習の功績とされた。

曹丕(文帝)が即位して并州が再び設置されると、梁習が再び刺史となり、申門亭侯に進封され百戸の所領を得た。梁習の政治は、常に天下で最も優れているとされた。

225年鮮卑軻比能を討伐し、大勝した(『三国志』魏志「文帝紀」)

228年曹叡(明帝)に召されて大司農となった。梁習は20年余りも刺史を務めたにもかかわらず、私腹を肥やさず貧しい暮らしをしていたので、明帝は梁習を厚遇した上で賜り物を与え、功績を労った。

230年に亡くなり、子の梁施が後を継いだ。

小説『三国志演義』には登場しない。

参考資料

  • 『三国志』


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