夏侯恵
幼少のころより才能学識をもって称賛され、奏議を綴るのが巧みで、散騎侍郎・黄門侍郎を歴任した《夏侯淵伝》。散騎侍郎であったとき、広く賢者を求める詔勅が下されたので、夏侯恵は散騎常侍劉劭を推薦している《劉劭伝》。しばしば鍾毓と議論を交わし、どの案件でも採用されることが多かった。燕国の相、楽安太守へと昇進したが、三十七歳で卒去した《夏侯淵伝》。 夏侯恵は文・賦を著し、劉劭・蘇林・韋誕・孫該・杜摯らとともに世間で大層流行した《劉劭伝》。その著作は『夏侯恵集』に収められたが、すでに散逸している《隋書経籍志》。ただ『景福殿賦』だけは『芸文類聚』に収録されて現在でも読むことができる《劉劭伝集解》。 【参照】韋誕 / 夏侯淵 / 鍾毓 / 蘇林 / 孫該 / 杜摯 / 劉劭 / 広陽郡(燕国) / 譙県 / 沛国 / 楽安国(楽安郡) / 黄門侍郎 / 散騎侍郎 / 散騎常侍 / 相 / 太守 / 夏侯恵集 / 景福伝賦 / 芸文類聚 / 奏議 / 賦 / 文 |
夏侯恵
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夏侯 恵(かこう けい、生没年不詳)は、中国三国時代の政治家。魏に仕えた。字は稚権。父は夏侯淵。兄は夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威・夏侯栄。弟は夏侯和。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」等に記述がある。
幼少のときから才能と学問に優れ、賞讃を受けていた。また奏議に優れていたともいう(「諸夏侯曹伝」が引く『文章叙録』)。
太和年間に、他の3人の兄弟達とともに関内侯を与えられた(「諸夏侯曹伝」)。
あるとき、広く才能のある人物を求める詔勅が下った。夏侯恵は劉劭の人物をかねてから評価していたこともあり、美辞麗句を用いた推薦文を書き、これを上奏した(「劉劭伝」)。
後に散騎侍郎・黄門侍郎となった。よく鍾毓と議論を交わすことがあり、夏侯恵の意見が採用されることが多かったという(「諸夏侯曹伝」が引く『文章叙録』)。
燕国の相に転出し、楽安太守にまでなった。没年は不明だが、37歳で死去した。
その文章や賦は三国志の編纂当時において、蘇林・韋誕・孫該・杜摯らの作品と共に、多くが伝わっていたという(「劉劭伝」)。
小説『三国志演義』では字を雅権とされている。兄の夏侯覇・夏侯威、弟の夏侯和とともに司馬懿配下の武将として活躍し、蜀漢の諸葛亮の北伐を防ぐ任務を果たしている。
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