文聘
字は仲業。南陽郡宛の人。 はじめ劉表の大将として北方の守りを担当した。劉表が亡くなると子劉琮は曹操に降伏した。しかし文聘は「荊州を守ることができなかったので、処罰を受けるのが当然です」と言ってお召しに応じなかった。曹操が漢江を渡るころになってようやく出頭した。曹操に「なぜ遅かったのだ」と問われ、「私は劉表さまを補佐して天子にお仕えするつもりでしたが、劉表さまはお隠れになりました。そこで遺児劉琮さまを守り立てて、漢川を防御戦として荊州を守ることにしました。その計画も失敗し、悲しみと恥ずかしさのあまりお顔を会わせることができなかったのです」と言い、涙を流してすすり泣いた。曹操も痛ましく思って「仲業、そなたは真の忠臣だ」と言い、彼を礼遇した。 曹操は文聘と曹純に劉備を追撃させた。こうして荊州が平定されると、曹操は文聘を江夏太守として、北方の兵を授けて呉との国境を守らせ、また関内侯の爵位を与えた。楽進とともに尋口で関羽を討伐して、延寿亭侯に進み、討逆将軍に任命された。また漢津で関羽の輜重隊を攻撃し、荊城で敵の船を焼き払った。 文帝(曹丕)が帝位に昇ると、長安郷侯に転封となり、節を与えられた。夏侯尚とともに江陵包囲作戦に従事し、文聘は別働隊として沔口に駐屯することになったが、途中の石梵で宿営したとき敵に遭遇し、それを撃退する武功を立てたので後将軍に昇任し、新野侯に取り立てられた。 黄初七年(二二六)八月《明帝紀》、孫権が五万の軍勢を率いて、自ら石陽の文聘を包囲した。ちょうど石陽では大雨が降って城壁が崩れていたが、まだ補修できないでいた。文聘は孫権の来襲を聞いて困じ果てていたが、わざと静寂を守って孫権に疑念を抱かせるしかないと考えた。そこで外からは城内の人が見えないようにして、自分は官舎に寝そべって立ち上がろうとしなかった。孫権はこれを見ると、「曹操は文聘を忠臣だと考えて、この郡を守らせているのだ。それなのにわしが来てもじっとしている。伏兵があるに違いない。そうでなければ援軍が来ているのだろう」と語り、二十日余りで包囲を解いて撤退した。文聘は孫権を追って撃破した。五百戸を加増され、合計千九百戸となった。 文聘は江夏郡を数十年にわたって守ったが、威信と恩寵によって敵国にも名声はとどろき、敵もあえて侵入することができなかった。文聘の所領は分割され、子文岱が列侯に取り立てられた。また文聘の従子文厚が関内侯となった。文聘は逝去すると威侯と諡された。文岱は先に亡くなっていたので、文聘の養子文休が相続した。文休が亡くなると、子文武が相続した。 【参照】夏侯尚 / 楽進 / 関羽 / 曹純 / 曹操 / 曹丕 / 孫権 / 文休 / 文厚 / 文岱 / 文武 / 劉協(天子) / 劉琮 / 劉備 / 劉表 / 宛県 / 延寿亭 / 漢江 / 漢津 / 漢川 / 荊州 / 荊城 / 呉 / 江夏郡 / 江陵県 / 尋口 / 新野県 / 石梵 / 石陽 / 長安郷 / 南陽郡 / 沔口 / 威侯 / 関内侯 / 郷侯 / 侯 / 後将軍 / 太守 / 大将 / 亭侯 / 討逆将軍 / 列侯 / 諡 / 節 |
文聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 19:31 UTC 版)
文聘 | |
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魏 後将軍・新野侯 |
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出生 | 生年不詳 荊州南陽郡宛県 |
拼音 | Wén Pìng |
字 | 仲業 |
諡号 | 壮侯 |
主君 | 劉表→劉琮→曹操→文帝→明帝 |
文 聘(ぶん ぺい、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。字は仲業。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市宛城区)の人。子は文岱・文厚(従子)・文休(養子)。孫は文武(文休の子)。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。
生涯
劉表の大将となり、荊州北部の守備を任された。208年、劉表が死去し劉琮が後を継いだ。曹操が荊州を攻めると劉琮は州を挙げて降伏し、文聘に呼び掛けて行動を共にしようとした。しかし文聘は「州を守れなかった処罰を待つだけです」と言って、それに応じなかった。
曹操が漢水を渡ったときになって、文聘はようやく出頭した。曹操が出頭の遅くなった理由を尋ねると、文聘は「荊州を守ることができなかったことが情けなく、早々に謁見する顔が無かったのです」と涙を流した。曹操はこの旧主に対する忠義を賞賛し、文聘を字で呼びかけ親しみの情を示して厚く遇した。曹操は文聘に兵を授け、曹純と共に長坂で劉備を追撃させた。
劉備を破った曹操は荊州を平定したが、孫権との国境に近い江夏郡が安定しなかったため、文聘を江夏太守に任命して旧劉表軍を統率させ[1]、関内侯の爵位を与えた。荊州の戦い後、劉備軍の関羽を楽進と共に尋口で討った。その功で延寿亭侯に昇進し、討逆将軍が加えられた。赤壁の戦い前後、関羽軍の輜重を漢水で攻撃し、荊城においては関羽の船を焼き払った。
曹丕(文帝)の時代には長安郷侯になり、仮節を与えられた。222年、夏侯尚が呉の江陵を包囲した際には、別働隊を率いて沔口に駐屯する任務を与えられ、途中の石梵で敵を防御し、その功で後将軍となり新野侯に封じられた。
226年、孫権は曹丕の死に乗じて自ら5万の軍勢を指揮して江夏を攻めたが、文聘は動揺せず城を堅守した。孫権が江夏郡の石陽を包囲したが、曹叡が援軍に荀禹を派遣して孫権の後方を撹乱したこともあり、孫権は二十余日で包囲を解き、殿軍を潘璋に任せて撤退する。夜間に撤退の途中で混乱が生じ、文聘はこれを見逃さず殿軍部隊を追撃し散々に打ち破り、なおも追撃を続けたが朱然に阻まれた。また孫権軍にも魏軍の退路を封鎖され、呉の孫奐は自らも呉碩・張梁を率いて先鋒となり、江夏郡の高城を落として敵将三名を捕らえ、高城は孫権軍に占領された。戦いの後、防衛の功績により500戸の加増を受けて1900戸となった。
彼が江夏を数十年に亘って守備し続けたため、ついに江夏が陥落することはなかった。文聘の威光や恩愛は敵国にも轟き渡り、誰も侵攻することができなくなったという。死後、壮侯と諡された。
文聘の生前、所領が分割され、子の文岱が列侯に取り立てられ、従子の文厚も関内侯に封じられた。文岱は父に先立って死去していたため、養子の文休が後を継ぎ、その死後は孫が跡を継いだ。
逯式という人物が江夏太守であったとき、文休は彼と対立したことがあった。このため呉の陸遜はこれに乗じて策を弄し、逯式を免職に追い込んだという(「陸遜伝」)。曹爽が実権を握った時代、江夏太守となった人物に王経がいるが、文一族との関わりは伝わっていない(「諸夏侯曹伝」が引く『世語』)。嘉平年間に江夏太守となった桓禺という人物は、文聘と並ぶ名声を博したという。
243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には文聘も含まれている。
評価
陳寿は州郡を守り威厳と恩恵を示した人物として、李通・臧覇・呂虔と共に称えている。
孫盛は君主に仕えて忠であり、涙で誠実さを示したと文聘を評価し、曹操が方面軍を任せた優れた人物の一人として臧覇と共に名を挙げている。
三国志演義
小説『三国志演義』においては、蔡瑁の劉備暗殺計画に加担し、王威とともに劉備の護衛役趙雲を引き離す任務を果たす。魏延は蔡瑁を追い払って劉備を迎え入れようとするが、文聘に阻止された。曹操への降伏時は、正史と同様の態度で曹操に感嘆された。長坂の戦いでは劉備に不忠を咎められたため、恥じてそのまま撤退している。赤壁の戦いでは水軍の将を務めたが、黄蓋の降伏の真偽を確かめるために船を引き止めようとしたところ、黄蓋から矢を受けて水に落ちた。赤壁陸上戦では周泰と韓当に敗走された。曹丕が徐盛の偽城の策によって大敗を喫した際には曹丕を背負って救出した。後に徐盛は魏軍に大打撃を与え、最後は葦の生い茂った箇所を、魏の大船団が敗走しようとしたところを火攻めにし、30万の魏軍を粉砕している。
脚注
- ^ 「武帝紀」
参考資料
文聘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:45 UTC 版)
劉琮が降伏した事を伝えた後曹操に才能を見込まれ仕える。長坂の戦いで劉備と接触した場合劉備に同朋を攻めている事を責められ野に下り戦には出ない事を宣言する。
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