前後左右将軍
![]() |
前後左右将軍(ぜんごさゆうしょうぐん)は、中国の秦・前漢以降の官職で、前将軍、左将軍、右将軍、後将軍の総称である。ただし、四将軍の順位には王朝によって異同がある。
四征将軍・四鎮将軍に比較して四方将軍と呼称されることもある。
中国では四征将軍・四鎮将軍・四安将軍・四平将軍を外征に携わる者として外朝廷将軍、四方将軍を大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍とともに朝廷内にあって政治にも関与する者として中朝廷将軍とする分類や、大将軍・驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍・四征将軍・四鎮将軍・四方将軍を雑号将軍に対して重号将軍と総称する分類もある。
『宋書』百官志上、下によると、宋においては四征将軍・四鎮将軍より下位にあった。しかし、時代や就任している人物によってその地位は変化するため、絶対的な順位はない。
『漢書』百官公卿表上、『続漢書』百官志一によれば周末に生まれた官であるという。金印紫綬で、常に置かれたのではなかった。征伐を掌り、任務が終われば官自体も終了した。
『宋書』百官志上によると、後漢の光武帝の建武7年(31年)に一旦廃止され、魏以降にまた置かれるようになったというが、『後漢書』光武帝紀によれば建武13年(37年)に左右将軍が廃止されており、後漢末以降また置かれるようになっている。
脚注
参考文献
後将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 00:55 UTC 版)
同年秋、劉備が漢中王になると黄忠を後将軍に任命しようとしたが、諸葛亮は「張飛殿・馬超殿らは彼の活躍を見ているので文句は言わないでしょうが、(荊州に残った)関羽将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言した。だが劉備は、関羽の説得は自分がすると言って、黄忠を後将軍に任命し、関内侯の爵位を与えた。後日、やはり諸葛亮の不安が的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の前将軍になることを拒否したが、費詩の説得で前将軍に就任した。 翌年(220年)亡くなった。子が早世していたため、彼の家は断絶した。景耀3年(260年)に剛侯の諡を送られた。 なお、同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・趙雲ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『季漢輔臣賛』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。 陳寿は、趙雲と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰、夏侯嬰に比している。
※この「後将軍」の解説は、「黄忠」の解説の一部です。
「後将軍」を含む「黄忠」の記事については、「黄忠」の概要を参照ください。
- 後将軍のページへのリンク