叙位された人物
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『日本書紀』に大錦下の冠位で見える人物には、まず天智天皇10年(671年)1月2日に大錦上の蘇我赤兄とともに殿前で賀正のことを奏した巨勢人がいる。 また、天智天皇10年(671年)1月に亡命百済人に一斉に冠位を授けたとき、大錦下が最高位で、佐平(百済の冠位)の余自信と法官大輔(日本の官職)の沙宅紹明が該当者になった。 天武天皇6年(677年)には、内大錦下の丹比麻呂が摂津職の大夫になった。天武天皇10年(681年)に天皇が帝紀と上古の諸事を記し定めることを命じたとき、指名された12人の中で皇族を除いた臣下の筆頭として大錦下の上毛野三千がいた。三千はその年のうちに死んだが、その時も大錦下であった。羽田八国は、天武天皇12年(683年)から伊勢王に従って諸国の境界画定の事業に携った。 秦綱手は天武天皇9年(680年)に大錦下で没した。『続日本紀』の記事から、笠志太留も大錦下であったことが知られる。 死後の贈位によってこの冠位を受けた人には、天武天皇9年(680年)に死んだ三宅石床がいる。『続日本紀』の記事から、没年不明の坂上熊毛も大錦下を贈位されたことがわかる。 巨勢人 - 天智天皇10年(671年)1月2日見。 余自信 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。佐平 沙宅紹明 - 天智天皇10年(671年)1月叙位 - 天武天皇2年(673年)閏6月6日没。法官大輔。外小紫を贈位。 丹比麻呂 - 天武天皇6年(677年)10月14日見。摂津職大夫。 秦綱手 - 天武天皇9年(680年)5月21日没時。大錦上を贈位。 三宅石床 - 天武天皇9年(680年)7月23日贈位。生前は小錦下。 上毛野三千 - 天武天皇10年(681年)3月17日見 - 同年8月11日没。『日本書紀』編纂。 羽田八国 - 天武天皇12年(683年)12月13日見。諸国の境界画定。 坂上熊毛 - 贈位。 笠志太留
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叙位された人物
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『日本書紀』に見える大錦中の人物には、天智天皇元年(662年)の安曇比羅夫がいる。百済救援のため豊璋を本国に送った大将軍で、前年の斉明天皇7年には前将軍・大花下として百済に進発した。しかし大錦中は2年後に制定されたもので、この時点では相当するものもない。後に授けられた冠位をさかのぼらせて書いたかと思われる。 もう一人は、壬申の乱で活躍した大伴吹負である。天武天皇12年(683年)に死んだ吹負に対して、死後大錦中が贈位された。 阿曇比羅夫(安曇比羅夫)- 天智天皇元年(662年)5月見。大将軍。 大伴男吹息(大伴吹負) 天武天皇12年(683年)8月5日贈位。
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叙位された人物
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『日本書紀』では三つの記事でこの冠位を授かった人物が現れる。中臣間人老は、白雉5年(654年)2月の遣唐使の一員である。沙尼具那と青蒜は斉明天皇4年(658年)の阿倍比羅夫北征で降った蝦夷で、都に上って饗応され、冠位を授けられた。都岐沙羅柵と渟足柵の柵造も同じ冠位になった。遣多禰島小使の上光父は、大使で大乙下の倭馬飼部連とともに天武天皇8年(679年)に多禰島に派遣された。 『正倉院文書』の中にある「他田日奉部直神護解」には、神護の祖父で小乙下の忍が、孝徳天皇の時代に下総国海上郡の少領だったと書かれている。また『常陸国風土記』には、白雉4年(653年)に大建の那珂国造壬生夫子とともに行方郡新設に携わった茨城国造の壬生麿が、小乙下とある。 他田日奉部忍 - 孝徳天皇代(645年 - 654年)。海上郡少領。 壬生麿 - 白雉4年(653年)見。茨城国造。 中臣間人老 - 白雉5年(654年)2月見。遣唐判官。 沙尼具那 - 斉明天皇4年(658年)7月4日叙位。渟代郡大領。 青蒜 - 斉明天皇4年(658年)7月4日叙位。津軽郡少領。 不詳 - 斉明天皇4年(658年)7月4日叙位。都岐沙羅柵造。 大伴稲積 - 斉明天皇4年(658年)7月4日叙位。渟足柵造。 上光父 - 天武天皇8年(679年)11月23日見。遣多禰島小使。
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叙位された人物
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『日本書紀』に見える大山上の人物には、まず、大化5年(649年)に小花下の三輪色夫とともに遣新羅使になった掃部角麻呂がいる。 次いで、斉明天皇7年(661年)8月に、後将軍大花下阿倍引田比羅夫のもとで百済救援軍を率いた物部熊と守大石がいる。 天武天皇10年(681年)には、大山上の草香部吉士大形が小錦下位を授けられ、難波連の姓(カバネ)を与えられた。同じ年に天皇は川島皇子ら12人に帝紀と上古の諸事を記し定めるよう命じたが、その中に大山上の中臣大島がいた。翌年には、舎人糠虫が大山上から小錦下に昇った。 『続日本紀』には、孝徳天皇の時代に大山上の安倍小殿小鎌が朱砂(辰砂)を採るために伊予国に派遣されたと記されている 掃部角麻呂 - 大化5年(649年)5月1日見。遣新羅使。 安倍小殿小鎌 - 孝徳天皇の時代。 物部熊 - 斉明天皇7年(661年)8月見。 守大石 - 斉明天皇7年(661年)8月見。 難波大形 - 天武天皇10年(681年)1月7日まで。小錦下に昇叙。 中臣大島 - 天武天皇10年(681年)3月17日見。 舎人糠虫 - 天武天皇11年(682年)1月9日まで。小錦下に昇叙。
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叙位された人物
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『日本書紀』に現われる人物では、白雉5年(654年)に遣大唐押使になった高向玄理、斉明天皇7年(661年)8月に百済救援に出兵した前将軍阿曇比羅夫と後将軍阿倍引田比羅夫が大花下である。
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叙位された人物
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『日本書紀』によれば、白雉5年(654年)の遣唐使の一員書麻呂、天武天皇5年(676年)の遣新羅使の大使物部麻呂(石上麻呂)が大乙上であった。斉明天皇4年(658年)に都で饗応された蝦夷の馬武が大乙上を授けられたこともある。馬武は一緒に饗応された蝦夷の中で最高位であった。 天武天皇2年(673年)に耽羅(済州島)から使者として来た久麻芸(久麻伎)は、耽羅王とともに大乙上を授かった。このとき、日本側はこの冠位が百済の佐平にあたると説明した。その冠は特に錦繍で飾った。 『常陸国風土記』には、大化5年(649年)に香島郡(鹿島郡)新設にあたった人として中臣□子が見える。□のところは欠字で、正しい名は不明である。 中臣□子 - 大化5年(649年)見。名の□は欠字。 書麻呂 - 白雉五年(654年)2月見。遣大唐判官。 馬武 - 斉明天皇4年(658年)7月4日叙位。津軽郡大領。 不詳 - 天武天皇2年(673年)8月25日叙位。耽羅王。 久麻芸(久麻伎) - 天武天皇2年(673年)8月25日叙位。耽羅王子。 物部麻呂(石上麻呂) - 天武天皇5年(676年)10月10日見。遣新羅大使。
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叙位された人物
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『日本書紀』に見える小山下の人物としては、まず遣唐使の判官として白雉5年(654年)に発った書麻呂がいる。ただし、書紀の本文は大乙上とし、小山下は「或本による」との注記である。また、天智天皇6年(667年)に来日した唐の使者司馬法聡を送り返すことを命じられた伊吉博徳が小山下であった。伊吉博徳は、朱鳥元年(686年)10月に大津皇子の謀反が発覚したときに逮捕された。そのときは冠位制度が変わっていたが、なお小山下と記されている。 西海使(遣百済使)では、斉明天皇2年(656年)に佐伯栲縄とともに百済から帰って鸚鵡を献上した難波国勝、翌年に小花下の阿曇頬垂とともに帰って駱駝を1頭献じた津傴僂がいる。 遣新羅使では、天智天皇6年(667年)に来日した新羅の使者金東巌の帰国にあわせて新羅に遣わされた道守麻呂、天武天皇13年(684年)の遣新羅小使都努牛甘がいる。都努牛甘のときの大使は高向麻呂で小錦下である。 斉明天皇7年(661年)9月には、日本にいた百済王子余豊璋が百済復興のために帰国したとき、大山下の狭井檳榔と小山下の秦田来津が5千の兵をもって送った。 天智天皇10年(671年)1月に、亡命百済人に一斉に冠位を授けたとき、百済の冠位で達率だった者50余人を小山下とした。達率のすべてが小山下ではなく、より上の冠位を受けた達率も数人いた。小山下より下の冠位になった者はいなかったようである。 天武天皇6年(677年)には、倭画師の音檮が小山下となり、封戸20戸を与えられた。 書麻呂 - 白雉5年(654年)2月見。遣唐判官。 難波国勝 - 斉明天皇2年(656年)9月5日見。西海使(遣百済使)。 津傴僂 - 斉明天皇]年(657年)見。西海使(遣百済使)。 伊吉博徳 - 天智天皇6年(667年)11月13日見 - 朱鳥元年(686年)10月2日見。司馬法聡の送使。大津皇子の謀反発覚により逮捕。 道守麻呂 - 天智天皇7年(668年)11月5日見。遣新羅使。 達率50余人 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。亡命百済人。 音檮 - 天武天皇6年(677年)5月3日叙位。倭画師。 都努牛甘 - 天武天皇13年(684年)4月20日見。遣新羅小使。
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叙位された人物
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『日本書紀』に出てくる人物では、大化5年(649年)4月20日に左大臣となった巨勢徳多(徳陀古)と、同じく右大臣になった大伴長徳が、同日に小紫から大紫になった。両人の大紫より高い冠位を持つ者はこの時点でなく、徳多は後に大繍になったが、長徳は大紫のまま死んだ。続いては、天智天皇3年(664年)5月に亡くなった蘇我連子が大紫で、連子も大臣だったと考えられている。 さらに、巨勢人が大雲という位だったとする記事が『続日本紀』にある。大雲は他に見えない冠位で、これを大紫の誤りとする説がある。大紫になったのがいつかは不明だが、巨勢人は天智天皇10年(671年)1月2日に大錦下であり、5日に御史大夫に任命された。その同じ5日に大錦上の中臣金が御史大夫より上の左大臣に任命されたので、人が大紫になったのはそれより後、かつ翌年7月に壬申の乱に敗れて流刑になる前となろう。しかし大雲を不明のままにして大紫にあてない説もある。 天武天皇は大臣を置かなかったが、壬申の乱で功績を立てた者に、死後大紫や小紫の位を贈った。彼らは生前の地位はさして引き上げられず、死後に贈位によって顕彰されたのである。 大紫か小紫か不明だが、奈良県で出土した金銅威奈真人大村骨蔵器に刻まれた墓誌には、威奈大村の父の鏡公が紫冠であったことが記されている。 巨勢徳陀古(巨勢徳多) - 大化5年(649年)4月20日叙位。前は小紫。 大伴長徳 - 大化5年(649年)4月20日叙位 - 没時。前は小紫。 蘇我連子 - 天智天皇3年(664年)5月没時。 巨勢比登(巨勢人) - 天智天皇10年(671年)1月5日以降叙位 - 天武天皇元年(672年)流刑。 韋那高見 - 天武天皇元年(672年)12月没時。 紀阿閇麻呂 - 天武天皇3年(674年)2月28日贈位。 物部雄君 - 天武天皇5年(676年)6月贈位。内位。 坂田雷 - 天武天皇5年(676年)9月。贈位。 星川麻呂 - 天武天皇9年(680年)5月27日贈位。生前は小錦中。 膳摩漏 - 天武天皇11年(682年)7月21日贈位。 大伴望多(大伴馬来田) - 天武天皇12年(683年)6月3日贈位。内位。
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叙位された人物
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『日本書紀』の中で冠位と名前がともに判明する例を冠位ごとに数えると、小錦下が最多である。この冠位が身分的に特別視される大夫の下限であることが、史書に記される機会に影響するらしい。後の従五位下と同じである。 遣唐使では、白雉5年(654年)の大使河辺麻呂と斉明天皇5年(659年)に難破して死んだ坂合部石布がいる。 遣新羅使では、天武天皇4年(675年)に副使になった三宅入石や天武天皇10年(681年)に大使として使わされた采女竹羅がいる。同じ年には筑紫に来た新羅使金忠平をその地で饗応するために、小錦下の河辺子首が派遣された。天武天皇13年(684年)には、小錦下の高向麻呂が大使として新羅に遣わされた。 采女竹羅と同じ日に高麗に派遣された佐伯広足も小錦下で、彼は天武天皇4年(675年)にも同じ冠位で小紫の美濃王と竜田の立野で風神を祀った。 白村江の戦いの後に日本に身を寄せることになった百済の達率鬼室集斯 は、天智天皇4年(665年)に小錦下の冠位を授けられた。彼は天智天皇10年(671年)に他の亡命百済人が一斉に官位を授かったとき、同じ小錦下となった。 他にも天武天皇2年(673年)に小紫の美濃王とともに造高市大寺司になった紀訶多麻呂がいる。翌年に対馬国から初めて産出した銀を献じた忍海大国は、その功績により小錦下に叙された。久努麻呂は、天武天皇4年(675年)に天皇の怒りを買って小錦下の位を奪われた。阿曇稲敷は、天武天皇10年(681年)に、天皇が帝紀および上古の諸事を記し定めることを命じたとき、その一員になった。 天武天皇12年(683年)には、諸国の境界を確定するため、諸王五位の伊勢王に従って、小錦下の多品治と中臣大島らが巡行に出た。天武天皇13年(684年)には、三野王に従って小錦下の采女筑羅が信濃の地形を見分した。 以上は何らかの事件に付随して人名・冠位が現れたものだが、『日本書紀』の中には小錦下を授けられたことだけが記された例がある。小錦下への到達それ自体に重要性を認めたものである。天武天皇9年(680年)の朴井子麻呂、翌年の田中鍛師、柿本猨、田部国忍、高向麻呂、粟田真人、物部麻呂(石上麻呂)、中臣大島、曾禰韓犬、書智徳、さらにその翌年の舎人糠虫 がその例である。 さらに、『続日本紀』の記事から、文成覚が壬申の乱での功績により死後贈位によって小錦下になったことが知られる。尾張馬身も壬申の功臣だが、生前に小錦下になった。坂合部石敷も同じである。 河辺麻呂 - 白雉5年(654年)2月。遣大唐大使。 坂合部石布 - 斉明天皇5年(659年)7月3日見 - 同月没。遣唐使。 鬼室集斯 - 天智天皇4年(665年)2月叙位、同10年(671年)1月叙位。達率。 紀訶多麻呂 - 天武天皇2年(673年)12月17日見。造高市大寺司。 忍海大国 - 天武天皇3年(674年)3月7日叙位。対馬国司守。 久努麻呂 - 天武天皇4年(675年)4月8日見 - 同年4月14日剥奪。 佐伯広足 - 天武天皇4年(675年)4月10日見 - 天武天皇10年(681年)7月4日見。遣新羅大使。 三宅入石 - 天武天皇4年(675年)7月7日見。遣新羅副使。 朴井子麻呂 - 天武天皇9年(680年)7月17日叙位。 三宅石床 - 天武天皇9年(680年)7月23日没。大錦下を贈位。 難波大形(草香部大形) - 天武天皇10年(681年)1月7日叙位。前は大山上。 阿曇稲敷 - 天武天皇10年(681年)3月17日見。『日本書紀』編纂。 釆女竹羅(采女筑羅) - 天武天皇10年(681年)7月4日見 - 同13年(684年)2月28日。遣新羅大使。信濃の地形を診る。 河辺子首 - 天武天皇10年(681年)12月10日見。新羅使の饗応に筑紫に派遣。 田中鍛師 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 柿本猨 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 田部国忍 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 高向麻呂 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位 - 天武天皇13年(684年)4月20日見。遣新羅大使。 粟田真人 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 物部麻呂(石上麻呂) - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 中臣大島 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位 - 天武天皇12年(683年)12月13日見。諸国の境界画定。 曾禰韓犬 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 書智徳 - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。 舎人糠虫 - 天武天皇11年(682年)1月9日叙位。前は大山上。 多品治 - 天武天皇12年(683年)12月13日見。諸国の境界画定。 文成覚 - 贈位。壬申の功臣。 尾張馬身
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叙位された人物
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1年で改称されたこともあり、大錦の冠位を授かったことが確実な形で記された人物はいない。皇極天皇4年(645年)6月14日に中臣鎌子(藤原鎌足)が大錦の冠を授けられたとあるのが『日本書紀』に見える唯一の例だが、大錦の制定前のことである。書紀にはこのような錯綜がままあり、実際の授与ではなく、後世の追記と考えられる。 後継である大花上・下や大錦上・中・下には、多数の例がある。大錦より上はごく僅かしかいない大臣に相当する冠位であって、高官の多くは大花・大錦系の冠を戴いていた。
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叙位された人物
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『日本書紀』には誰かに立身の冠位を授けたと明記する箇所はない。しかし、斉明天皇4年(658年)7月4日に渟代郡の少領、宇婆左に建武の位を授けたと記しており、時期的に立身のことと考えられる。また、名は記されずに位一階を授けられたと記されるのが柵養蝦夷2人、渟代郡と津軽郡の勇健者各2人、都岐沙羅柵の判官で、これらの位も立身を指すのであろう。 翌年(659年)3月には、阿倍比羅夫遠征の賞の一部として、陸奥と越の国司に位各二階、郡司と主政に位各一階を授けたとある。なお、この頃は郡がなく評があり、書紀はそれらをみな郡に書き換えているので、渟代郡・津軽郡は渟代評・津軽評、少領・郡司・主政も別の官名であろう。 これらの例からは、冠位を授からないまま柵や評の長官・次官として勤務していた者がいたことがうかがえる。最下位と言えども後の律令制の初位より高い地位である。 柵養蝦夷2人 宇婆左 渟代郡の勇健者2人 津軽郡の勇健者2人 都岐沙羅柵の判官 陸奥国の郡司と主政 越国の郡司と主政
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叙位された人物
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『日本書紀』に現れる小錦中の人物としては、天智天皇8年(669年)の遣唐使河内鯨、天武天皇4年(675年)に広瀬河曲で大忌神を祭った間人大蓋、天武天皇10年(681年)3月17日に帝紀及び上古の諸事の記定を命じられた中の忌部子首、天武天皇13年(684年)に広瀬王とともに畿内で都にふさわしい地を探してまわった大伴安麻呂がいる。 天武天皇9年(680年)に死んだ星川麻呂と、同じく11年(682年)に死んだ膳摩漏は、没時に小錦中であったが、壬申の乱の功臣であったため、死後大紫位を贈られた。 『続日本紀』によれば、小野毛人と中納言の巨勢黒麻呂も小錦中であった。しかし、小野毛人は江戸時代に発見された墓中の銘に大錦上とある。 河内鯨 - 天智天皇8年(669年)見。遣唐使。 間人大蓋 - 天武天皇4年(675年)4月10日見。 小野毛人 - 天武天皇6年(677年)没。大錦上か。 星川麻呂 - 天武天皇9年(680年)5月27日没。大紫を贈る。 忌部子首 - 天武天皇10年(681年)3月17日見。 膳摩漏 - 天武天皇11年(682年)7月9日見。18日没。21日に大紫を贈る。 大伴安麻呂 - 天武天皇13年(684年)2月28日見。 巨勢黒麻呂 - 中納言。
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叙位された人物
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『日本書紀』にこの冠位をもって現れる人物には、 天智天皇6年(667年)に唐の使者を小山下の伊吉博徳とともに送った笠諸石と、天武天皇8年(679年)に多禰島に大使として派遣された倭馬飼部連がいる。 『常陸国風土記』には、大化5年(649年)に大乙上の中臣□子(3字目が欠ける)とともに香島郡(鹿島郡)新設に携った中臣兎子が見える。 中臣兎子 - 大化5年(649年)見。 笠諸石 - 天智天皇6年(667年)11月13日見。司馬法聡の送使。 倭馬飼部連 - 天武天皇8年(679年)11月23日見。遣多禰島大使。
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叙位された人物
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『日本書紀』に小山上の冠位で記された人物としては、まず白雉4年(653年)の遣唐使の大使吉士長丹がいる。彼は翌年帰国し、唐国天子に奉対して文書宝物を持ち帰った功績により小花下になった。副使の吉士駒は小乙上だったが、帰国後に小山上になった。 百舌鳥土師土徳は、 白雉5年(654年)に崩御した孝徳天皇の殯宮のことを管理した。 天智天皇10年(671年)1月、亡命百済人に一斉に冠位を授けたとき、達率の徳頂上、吉大尚、許率母、角福牟が小山上になった。 『常陸国風土記』には、小山上の物部河内が白雉4年(653年)に信太郡の新設に携ったとある。 吉士長丹 - 白雉4年(653年)5月12日見 - 7月まで。遣大唐大使。帰国後小花下。 吉士駒 - 白雉4年(653年)7月叙位。小乙上として遣大唐副使、帰国後昇叙。 物部河内 - 白雉4年(653年)見。 百舌鳥土師土徳 - 白雉5年(654年)10月10日見。孝徳天皇の殯宮事務。 徳頂上 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。亡命百済人。達率。薬に通じる。 吉大尚 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。亡命百済人。薬に通じる。 許率母 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。亡命百済人。五経に通じる。 角福牟 - 天智天皇10年(671年)1月叙位。亡命百済人。陰陽に通じる。
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叙位された人物
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1年で改称されたこともあり、小錦の冠位を授かったと『日本書紀』に記された人物はいない。 後継である小花上・下や小錦上・中・下には多数の例がある。天武天皇の時代には、天皇が物を賜るなどの機会に、「小錦以上大夫(マエツキミ)」が一括した待遇を受ける記事が散見する。天武天皇5年(676年)8月2日には、小錦以上の大夫らが食封を与えられた。逆に小錦の下について「大山位以下」が一括された例がいくつか見られるので、このあたりに身分的境界があったようである。
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叙位された人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:08 UTC 版)
『日本書紀』に小錦上の冠位で見える人物としては、天武天皇4年(675年)に兵政官の大輔になったときの大伴御行、同年に理由不明で朝参を禁じられた当摩広麻呂、同年の遣新羅使の大使大伴国麻呂、天武天皇6年(677年)に民部卿になった河辺百枝がいる。 また、壬申の乱の功臣で死後贈位により小錦上になった人物に、大分稚見と置始菟(置始連宇佐伎)がいる。稚見は外位であった。 大伴御行 - 天武天皇4年(675年)3月16日見。兵政官大輔。 当摩広麻呂 - 天武天皇4年(675年)4月8日見。 大伴国麻呂 - 天武天皇4年(675年)7月7日見。遣新羅大使。 河辺百枝 - 天武天皇6年(677年)10月14日見。民部卿。 大分稚見 - 天武天皇8年(679年)3月6日没。贈位。外位。 置始菟(置始連宇佐伎) - 贈位。
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叙位された人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:22 UTC 版)
大織を授けられたことが記録に見えるのは、内臣(内大臣)の中臣鎌足(藤原鎌足)だけである。天智天皇に信任された鎌足は、死の前日の天智天皇8年(669年)10月15日に大織冠を授けられた。後に鎌足は「大織冠」と尊称された。 他の冠位については、「大錦上位」など「位」の字をつけるのが普通だが、大織の場合は「冠」をつけて大織冠と呼ぶことが多い。『藤氏家伝』上巻にあたる鎌足の伝記は「大織冠伝」と呼ばれる。 他には斉明天皇7年(662年)9月に帰国して百済の王位に就こうとする百済王子豊璋に織冠を授けたとの記事があるが、大織とも小織ともない。このことから、大織と小織は唐が高句麗・百済・新羅の王に一品相当の官を授けたことにならい、外国の王に授けることを想定した冠位だったとする説がある。 他の大臣の例としては大繡の巨勢徳多が最高である。
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叙位された人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 02:06 UTC 版)
『日本書紀』にこの冠位をもって現れる人物には、白雉4年(653年)の遣唐使で副使になった吉士駒と掃守小麻呂、 白雉5年(654年)の遣唐使で判官になった岡宜と置始大伯、斉明天皇4年(658年)に阿倍比羅夫に服した蝦夷の恩荷がいる。 吉士駒 - 白雉4年(653年)5月12日見 - 白雉5年(654年)7月まで。遣大唐副使として見え、帰国後小山上。 掃守小麻呂 - 白雉4年(653年)5月12日見、同年7月没。遣大唐副使。 岡宜 - 白雉5年(654年)2月見。遣大唐判官。 置始大伯 - 白雉5年(654年)2月見。遣大唐判官。 恩荷 - 斉明天皇4年(658年)4月叙位。
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叙位された人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 02:10 UTC 版)
『日本書紀』に大錦上の冠位で見える人物には、孝徳天皇時代の白雉5年(654年)2月の遣大唐押使、高向玄理がいるが、この年は大錦上の冠位制定の10年も前である。書紀は或本いわくとして、高玄理を大花下と記す。 また、『続日本紀』によれば、斉明天皇の時代の筑紫大宰帥阿倍比羅夫が大錦上であった。 天智天皇に信任された蘇我赤兄は、天智天皇8年(669年)10月19日と天智天皇10年(671年)1月2日に大錦上の冠位で見える。同じく大錦上の中臣金は同月5日に左大臣になり、赤兄は右大臣になった。同時に御史大夫になった大錦下の巨勢人が大紫に昇ったとする説に従うなら、両人は大臣になってからさらに高い冠位を授ったと考えられるが、巨勢人の大紫を認めない説もある 天武天皇の時代には、坂本財が天武天皇2年(673年)5月29日に大錦上で死んだ。天武天皇8年(679年)6月26日には、大伴杜屋が大錦上で死んだ。また、江戸時代に発見された小野毛人の墓誌銘には、天武天皇のとき太政官兼刑部大卿で大錦上とあった。 死後の贈位で大錦上になった人には、乙巳の変で蘇我入鹿を討った佐伯古麻呂(子麻呂)のほか、壬申の乱に功があった4人がいる。天武天皇8年(679年)2月3日の紀訶多麻呂、天武天皇9年(680年)5月21日の秦綱手、天武天皇11年(682年)3月の舎人糠虫、土師真敷である。 高向玄理 - 白雉5年(654年)2月。遣大唐押使。 阿倍比羅夫 - 大宰帥。 佐伯古麻呂(佐伯子麻呂) - 天智天皇5年(666年)3月頃没。贈位により大錦上。 蘇我赤兄 - 天智天皇8年(669年)10月19日見 - 天智天皇10年(671年)1月2日見。右大臣。 中臣金 - 天智天皇10年(671年)1月5日見。左大臣。 坂本財 - 天武天皇2年(673年)5月29日没時。小紫を贈位。 紀堅麻呂(紀訶多麻呂) - 天武天皇8年(679年)2月3日贈位。 大伴杜屋 - 天武天皇8年(679年)6月26日没時。 秦綱手 - 天武天皇9年(680年)5月21日贈位。生前は小錦下。 舎人糠虫 - 天武天皇11年(682年)2月贈位。生前は小錦下。 土師真敷 - 天武天皇11年(682年)3月贈位。 小野毛人 - 天武天皇の頃。太政官兼刑部大卿。
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