叙位された人物とは? わかりやすく解説

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叙位された人物

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大錦下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』大錦下冠位見え人物には、まず天智天皇10年671年1月2日大錦上蘇我赤兄とともに殿前で賀正のことを奏した巨勢人がいる。 また、天智天皇10年671年1月亡命百済人一斉に冠位授けたとき、大錦下最高位で、佐平百済冠位)の余自信法官大輔日本官職)の沙宅紹明該当者になった天武天皇6年677年)には、内大錦下丹比麻呂摂津職大夫になった天武天皇10年681年)に天皇帝紀上古諸事記し定めることを命じたとき、指名され12人の中で皇族除いた臣下筆頭として大錦下の上毛野三千がいた。三千はその年のうちに死んだが、その時大錦下であった羽田八国は、天武天皇12年683年)から伊勢に従って諸国境界画定事業に携った。 秦綱手天武天皇9年680年)に大錦下没した『続日本紀』記事から、笠志太留大錦下であったことが知られる死後の贈位によってこの冠位受けた人には、天武天皇9年680年)に死んだ三宅石床がいる。『続日本紀』記事から、没年不明坂上熊毛大錦下贈位されたことがわかる。 巨勢人 - 天智天皇10年671年1月2日見。 余自信 - 天智天皇10年671年1月叙位佐平 沙宅紹明 - 天智天皇10年671年1月叙位 - 天武天皇2年673年)閏6月6日没。法官大輔。外小紫贈位丹比麻呂 - 天武天皇6年677年10月14日見。摂津職大夫秦綱手 - 天武天皇9年680年5月21日没時。大錦上贈位三宅石床 - 天武天皇9年680年7月23日贈位生前小錦下上毛野三千 - 天武天皇10年681年3月17日見 - 同年8月11日没。『日本書紀』編纂羽田八国 - 天武天皇12年683年12月13日見。諸国境界画定坂上熊毛 - 贈位笠志太留

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大錦中」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』見え大錦中人物には、天智天皇元年662年)の安曇比羅夫がいる。百済救援のため豊璋本国送った大将軍で、前年斉明天皇7年には前将軍大花下として百済進発した。しかし大錦中2年後制定されたもので、この時点では相当するものもない。後に授けられ冠位さかのぼらせて書いたかと思われるもう一人は、壬申の乱活躍した大伴吹負である。天武天皇12年683年)に死んだ吹負に対して死後大錦中贈位された。 阿曇比羅夫安曇比羅夫)- 天智天皇元年662年5月見。大将軍大伴男吹息(大伴吹負天武天皇12年683年8月5日贈位

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小乙下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』では三つ記事でこの冠位授かった人物現れる中臣間人老は、白雉5年654年2月遣唐使一員である。沙尼具那と青蒜斉明天皇4年658年)の阿倍比羅夫北征降った蝦夷で、都に上って饗応され、冠位授けられた。都岐沙羅柵渟足柵柵造も同じ冠位になった。遣多禰島小使の上光父は、大使大乙下の倭馬飼部とともに天武天皇8年679年)に多禰島派遣された。 『正倉院文書』の中にある「他田日奉部神護解」には、神護の祖父小乙下の忍が、孝徳天皇時代下総国海上郡少領だったと書かれている。また『常陸国風土記』には、白雉4年653年)に大建那珂国造壬生夫子とともに行方郡新設携わった茨城国造壬生麿が、小乙下とある。 他田日奉部忍 - 孝徳天皇代(645年 - 654年)。海上郡少領壬生麿 - 白雉4年653年)見。茨城国造中臣間人老 - 白雉5年654年2月見。遣唐判官。 沙尼具那 - 斉明天皇4年658年7月4日叙位。渟代郡大領青蒜 - 斉明天皇4年658年7月4日叙位津軽郡少領不詳 - 斉明天皇4年658年7月4日叙位都岐沙羅柵造。 大伴稲積 - 斉明天皇4年658年7月4日叙位渟足柵造。 上光父 - 天武天皇8年679年11月23日見。遣多禰島小使

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大山上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』見え大山上人物には、まず、大化5年649年)に小花下三輪色夫とともに遣新羅使になった掃部角麻呂がいる。 次いで斉明天皇7年661年8月に、後将軍大花下阿倍引田比羅夫のもとで百済救援軍率いた物部熊守大石がいる。 天武天皇10年681年)には、大山上草香吉士大形小錦下位を授けられ難波連の姓(カバネ)を与えられた。同じ年に天皇川島皇子12人に帝紀上古諸事記し定めるよう命じたが、その中に大山上中臣大島がいた。翌年には、舎人糠虫大山上から小錦下に昇った。 『続日本紀』には、孝徳天皇時代大山上安倍小殿小鎌朱砂辰砂)を採るために伊予国派遣されたと記されている 掃部角麻呂 - 大化5年649年5月1日見。遣新羅使安倍小殿小鎌 - 孝徳天皇時代物部熊 - 斉明天皇7年661年8月見。 守大石 - 斉明天皇7年661年8月見。 難波大形 - 天武天皇10年681年1月7日まで。小錦下昇叙中臣大島 - 天武天皇10年681年3月17日見。 舎人糠虫 - 天武天皇11年682年1月9日まで。小錦下昇叙

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大花下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』現われる人物では、白雉5年654年)に遣大唐押使になった高向玄理斉明天皇7年661年8月百済救援出兵した前将軍阿曇比羅夫後将軍阿倍引田比羅夫大花下である。

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大乙上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』によれば白雉5年654年)の遣唐使一員書麻呂天武天皇5年676年)の遣新羅使大使物部麻呂石上麻呂)が大乙上であった斉明天皇4年658年)に都で饗応された蝦夷馬武大乙上授けられたこともある。馬武一緒に饗応された蝦夷の中で最高位であった天武天皇2年673年)に耽羅済州島)から使者として来た久麻芸(久麻伎)は、耽羅とともに大乙上授かった。このとき、日本側はこの冠位百済佐平にあたると説明した。その冠は特に錦繍飾った。 『常陸国風土記』には、大化5年649年)に香島郡(鹿島郡新設あたった人として中臣□子が見える。□のところは欠字で、正しい名は不明である。 中臣□子 - 大化5年649年)見。名の□は欠字書麻呂 - 白雉五年(654年2月見。遣大唐判官馬武 - 斉明天皇4年658年7月4日叙位津軽郡大領不詳 - 天武天皇2年673年8月25日叙位耽羅王。 久麻芸(久麻伎) - 天武天皇2年673年8月25日叙位耽羅王子物部麻呂石上麻呂) - 天武天皇5年676年10月10日見。遣新羅大使

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小山下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』見え小山下人物としては、まず遣唐使判官として白雉5年654年)に発った書麻呂がいる。ただし、書紀本文大乙上とし、小山下は「或本による」との注記である。また、天智天皇6年667年)に来日した唐の使者司馬法聡を送り返すことを命じられ伊吉博徳小山下であった伊吉博徳は、朱鳥元年686年10月大津皇子謀反発覚したときに逮捕された。そのとき冠位制度変わっていたが、なお小山下記されている。 西海使(遣百済使)では、斉明天皇2年656年)に佐伯栲縄とともに百済から帰って鸚鵡献上した難波国勝翌年小花下阿曇頬垂とともに帰って駱駝を1頭献じた傴僂がいる。 遣新羅使では、天智天皇6年667年)に来日した新羅使者金東巌の帰国あわせて新羅遣わされ道守麻呂天武天皇13年684年)の遣新羅小使都努牛甘がいる。都努牛甘のときの大使高向麻呂小錦下である。 斉明天皇7年661年9月には、日本にいた百済王余豊璋百済復興のために帰国したとき、大山下狭井檳榔小山下の秦田来津が5千の兵をもって送った天智天皇10年671年1月に、亡命百済人一斉に冠位授けたとき、百済冠位で達率だった者50余人小山下とした。達率のすべてが小山下ではなく、より上の冠位受けた達率も数人いた。小山下より下の冠位になった者はいなかったようである。 天武天皇6年677年)には、倭画師の音檮が小山下となり、封戸20戸を与えられた。 書麻呂 - 白雉5年654年2月見。遣唐判官難波国勝 - 斉明天皇2年656年9月5日見。西海使(遣百済使)。 津傴僂 - 斉明天皇]年(657年)見。西海使(遣百済使)。 伊吉博徳 - 天智天皇6年667年11月13日見 - 朱鳥元年686年10月2日見。司馬法聡の送使。大津皇子謀反発覚により逮捕道守麻呂 - 天智天皇7年668年11月5日見。遣新羅使。 達率50余人 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人。 音檮 - 天武天皇6年677年5月3日叙位。倭画師都努牛甘 - 天武天皇13年684年4月20日見。遣新羅小使

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大紫」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』出てくる人物では、大化5年649年4月20日左大臣となった巨勢徳多(徳陀古)と、同じく右大臣になった大伴長徳が、同日小紫から大紫になった両人大紫より高い冠位を持つ者はこの時点でなく、徳多は後に大繍になったが、長徳大紫のまま死んだ続いては、天智天皇3年664年5月亡くなった蘇我連子大紫で、連子大臣だったと考えられている。 さらに、巨勢人が大という位だったとする記事『続日本紀』にある。大は他に見えない冠位で、これを大紫誤りとする説がある。大紫になったのがいつかは不明だが、巨勢人天智天皇10年671年1月2日大錦下であり、5日御史大夫任命された。その同じ5日大錦上中臣金御史大夫より上の左大臣任命されたので、人が大紫になったのはそれより後、かつ翌年7月壬申の乱敗れて流刑になる前となろう。しかし大不明のままにして大紫あてない説もある。 天武天皇大臣を置かなかったが、壬申の乱功績立てた者に、死後大紫小紫の位を贈った。彼らは生前地位はさして引き上げられず、死後贈位によって顕彰されたのである大紫小紫不明だが、奈良県出土した金銅威奈真人大村骨蔵器刻まれ墓誌には、威奈大村の父の鏡公が紫冠であったことが記されている。 巨勢徳陀古(巨勢徳多) - 大化5年649年4月20日叙位。前は小紫大伴長徳 - 大化5年649年4月20日叙位 - 没時。前は小紫蘇我連子 - 天智天皇3年664年5月没時。 巨勢比登(巨勢人) - 天智天皇10年671年1月5日以降叙位 - 天武天皇元年672年流刑。 韋那高見 - 天武天皇元年672年12月没時。 紀阿閇麻呂 - 天武天皇3年674年2月28日贈位物部雄君 - 天武天皇5年676年6月贈位内位坂田雷 - 天武天皇5年676年9月贈位星川麻呂 - 天武天皇9年680年5月27日贈位生前小錦中膳摩漏 - 天武天皇11年682年7月21日贈位大伴望多大伴馬来田) - 天武天皇12年683年6月3日贈位内位

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小錦下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』の中で冠位と名前がともに判明する例を冠位ごとに数えると、小錦下最多である。この冠位身分的に特別視される大夫下限であることが、史書記される機会影響するらしい。後の従五位下と同じである。 遣唐使では、白雉5年654年)の大使河辺麻呂斉明天皇5年659年)に難破して死んだ坂合部石布がいる。 遣新羅使では、天武天皇4年675年)に副使になった三宅入石天武天皇10年681年)に大使として使わされた采女竹羅がいる。同じ年には筑紫に来た新羅使金忠平をその地で饗応するために、小錦下河辺子首が派遣された。天武天皇13年684年)には、小錦下高向麻呂大使として新羅遣わされた。 采女竹羅と同じ日に高麗派遣され佐伯広足小錦下で、彼は天武天皇4年675年)にも同じ冠位小紫美濃王竜田立野風神祀った白村江の戦いの後に日本身を寄せることになった百済の達率鬼室集斯 は、天智天皇4年665年)に小錦下冠位授けられた。彼は天智天皇10年671年)に他の亡命百済人一斉に官位授かったとき、同じ小錦下となった。 他にも天武天皇2年673年)に小紫美濃王とともに高市大寺になった紀訶多麻呂がいる。翌年対馬国から初め産出した銀を献じた忍海大国は、その功績により小錦下叙された。久努麻呂は、天武天皇4年675年)に天皇怒り買って小錦下の位を奪われた。阿曇稲敷は、天武天皇10年681年)に、天皇帝紀および上古諸事記し定めることを命じたとき、その一員になった天武天皇12年683年)には、諸国境界確定するため、諸王五位伊勢に従って小錦下多品治中臣大島らが巡行出た天武天皇13年684年)には、三野王に従って小錦下采女筑羅信濃地形見分した。 以上は何らかの事件付随して人名冠位現れたものだが、『日本書紀』中には小錦下授けられたことだけが記された例がある。小錦下への到達それ自体重要性認めたのである天武天皇9年680年)の井子麻呂翌年田中鍛師柿本猨田部国忍、高向麻呂粟田真人物部麻呂石上麻呂)、中臣大島曾禰韓犬書智徳、さらにその翌年舎人糠虫 がその例である。 さらに、『続日本紀』記事から、文成覚壬申の乱での功績により死後贈位によって小錦下になったことが知られる尾張馬身壬申の功臣だが、生前小錦下になった坂合部石敷も同じである。 河辺麻呂 - 白雉5年654年2月。遣大唐大使坂合部石布 - 斉明天皇5年659年7月3日見 - 同月没。遣唐使鬼室集斯 - 天智天皇4年665年2月叙位、同10年671年1月叙位。達率。 紀訶多麻呂 - 天武天皇2年673年12月17日見。造高市大寺司。 忍海大国 - 天武天皇3年674年3月7日叙位対馬国司守。 久努麻呂 - 天武天皇4年675年4月8日見 - 同年4月14日剥奪佐伯広足 - 天武天皇4年675年4月10日見 - 天武天皇10年681年7月4日見。遣新羅大使三宅入石 - 天武天皇4年675年7月7日見。遣新羅副使井子麻呂 - 天武天皇9年680年7月17日叙位三宅石床 - 天武天皇9年680年7月23日没。大錦下贈位難波大形草香大形) - 天武天皇10年681年1月7日叙位。前は大山上阿曇稲敷 - 天武天皇10年681年3月17日見。『日本書紀』編纂釆女竹羅(采女筑羅) - 天武天皇10年681年7月4日見 - 同13年684年2月28日。遣新羅大使信濃地形を診る。 河辺子首 - 天武天皇10年681年12月10日見。新羅使饗応筑紫派遣田中鍛師 - 天武天皇10年681年12月29日叙位柿本猨 - 天武天皇10年681年12月29日叙位田部国忍 - 天武天皇10年681年12月29日叙位高向麻呂 - 天武天皇10年681年12月29日叙位 - 天武天皇13年684年4月20日見。遣新羅大使粟田真人 - 天武天皇10年681年12月29日叙位物部麻呂石上麻呂) - 天武天皇10年681年12月29日叙位中臣大島 - 天武天皇10年681年12月29日叙位 - 天武天皇12年683年12月13日見。諸国境界画定曾禰韓犬 - 天武天皇10年681年12月29日叙位書智徳 - 天武天皇10年681年12月29日叙位舎人糠虫 - 天武天皇11年682年1月9日叙位。前は大山上多品治 - 天武天皇12年683年12月13日見。諸国境界画定文成覚 - 贈位壬申の功臣尾張馬身

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大錦 (冠位)」の記事における「叙位された人物」の解説

1年改称されたこともあり、大錦冠位授かったことが確実な形で記され人物はいない。皇極天皇4年645年6月14日中臣鎌子藤原鎌足)が大錦の冠を授けられたとあるのが『日本書紀』見え唯一の例だが、大錦制定前のことである。書紀にはこのような錯綜がままあり、実際授与ではなく後世追記考えられる後継である大花上・下や大錦上中・下には、多数の例がある。大錦より上はごく僅かかいない大臣相当する冠位であって高官多く大花大錦系の冠を戴いていた。

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立身」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』には誰か立身冠位授けた明記する箇所はない。しかし、斉明天皇4年658年7月4日に渟代郡少領宇婆左建武の位を授けた記しており、時期的に立身のことと考えられるまた、名は記されずに位一階授けられたと記されるのが柵養蝦夷2人、渟代郡津軽郡勇健者各2人都岐沙羅柵判官で、これらの位も立身を指すのであろう翌年659年3月には、阿倍比羅夫遠征の賞の一部として、陸奥越の国司に位各二階郡司主政に位各一階授けたとある。なお、この頃は郡がなく評があり、書紀はそれらをみな郡に書き換えているので、渟代郡津軽郡は渟代評・津軽評、少領郡司主政別の官名であろう。 これらの例からは、冠位授からないまま柵や評の長官次官として勤務していた者がいたことがうかがえる最下位と言えども後の律令制初位より高い地位である。 柵養蝦夷2人 宇婆左代郡勇健2人 津軽郡勇健2人 都岐沙羅柵判官 陸奥国郡司主政 越国郡司主政

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小錦中」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』現れる小錦中人物としては、天智天皇8年669年)の遣唐使河内鯨天武天皇4年675年)に広瀬河曲大忌神を祭った間人大蓋天武天皇10年681年3月17日帝紀及び上古諸事の記定を命じられた中の忌部子首天武天皇13年684年)に広瀬王とともに畿内都にふさわしい地を探してまわった大伴安麻呂がいる。 天武天皇9年680年)に死んだ星川麻呂と、同じく11年682年)に死んだ膳摩漏は、没時に小錦中であったが、壬申の乱功臣であったため、死後大紫位を贈られた。 『続日本紀』によれば小野毛人中納言巨勢黒麻呂小錦中であった。しかし、小野毛人江戸時代発見された墓中の銘に大錦上とある。 河内鯨 - 天智天皇8年669年)見。遣唐使間人大蓋 - 天武天皇4年675年4月10日見。 小野毛人 - 天武天皇6年677年)没。大錦上か。 星川麻呂 - 天武天皇9年680年5月27日没。大紫を贈る。 忌部子首 - 天武天皇10年681年3月17日見。 膳摩漏 - 天武天皇11年682年7月9日見。18日没。21日大紫を贈る。 大伴安麻呂 - 天武天皇13年684年2月28日見。 巨勢黒麻呂 - 中納言

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大乙下」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』にこの冠位をもって現れる人物には、 天智天皇6年667年)に唐の使者小山下伊吉博徳とともに送った笠諸石と、天武天皇8年679年)に多禰島大使として派遣された倭馬飼部連がいる。 『常陸国風土記』には、大化5年649年)に大乙上中臣□子(3字目が欠ける)とともに香島郡(鹿島郡新設に携った中臣兎子が見える。 中臣兎子 - 大化5年649年)見。 笠諸石 - 天天皇6年667年11月13日見。司馬法聡の送使。 倭馬飼部連 - 天武天皇8年679年11月23日見。遣多禰島大使

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小山上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』小山上冠位記され人物としては、まず白雉4年653年)の遣唐使大使吉士長丹がいる。彼は翌年帰国し唐国天子奉対して文書宝物持ち帰った功績により小花下になった副使吉士駒小乙上だったが、帰国後に小山上になった百舌鳥土師土徳は、 白雉5年654年)に崩御し孝徳天皇殯宮のことを管理した天智天皇10年671年1月亡命百済人一斉に冠位授けたとき、達率の徳頂上吉大尚許率母角福牟小山上になった。 『常陸国風土記』には、小山上物部河内白雉4年653年)に信太郡新設に携ったとある。 吉士長丹 - 白雉4年653年5月12日見 - 7月まで。遣大唐大使帰国小花下吉士駒 - 白雉4年653年7月叙位小乙上として遣大唐副使帰国昇叙物部河内 - 白雉4年653年)見。 百舌鳥土師土徳 - 白雉5年654年10月10日見。孝徳天皇殯宮事務。 徳頂上 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人。達率。通じる。 吉大尚 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人通じる。 許率母 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人五経通じる。 角福牟 - 天智天皇10年671年1月叙位亡命百済人陰陽通じる。

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小錦 (冠位)」の記事における「叙位された人物」の解説

1年改称されたこともあり、小錦冠位授かった『日本書紀』記され人物はいない。 後継である小花上・下や小錦上中・下には多数の例がある。天武天皇時代には、天皇が物を賜るなどの機会に、「小錦上大夫(マエツキミ)」が一括し待遇を受ける記事散見する天武天皇5年676年8月2日には、小錦上の大夫らが食封与えられた。逆に小錦の下について「大山位以下」が一括された例がいくつか見られるので、このあたりに身分的境界あったようである。

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叙位された人物

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小錦上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』小錦上冠位見え人物としては、天武天皇4年675年)に兵政官大輔になったときの大伴御行同年理由不明朝参禁じられ当摩広麻呂同年遣新羅使大使大伴国麻呂天武天皇6年677年)に民部卿になった河辺百枝がいる。 また、壬申の乱功臣死後贈位により小錦上になった人物に、大分稚見置始菟置始連宇佐伎)がいる。稚見は外位であった大伴御行 - 天武天皇4年675年3月16日見。兵政官大輔当摩広麻呂 - 天武天皇4年675年4月8日見。 大伴国麻呂 - 天武天皇4年675年7月7日見。遣新羅大使河辺百枝 - 天武天皇6年677年10月14日見。民部卿大分稚見 - 天武天皇8年679年3月6日没。贈位外位置始菟置始連宇佐伎) - 贈位

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叙位された人物

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大織冠」の記事における「叙位された人物」の解説

大織授けられたことが記録見えるのは、内臣内大臣)の中臣鎌足藤原鎌足)だけである。天智天皇信任され鎌足は、死の前日天智天皇8年669年10月15日大織冠授けられた。後に鎌足は「大織冠」と尊称された。 他の冠位については、「大錦上位」など「位」の字をつけるのが普通だが、大織場合は「冠」をつけて大織冠と呼ぶことが多い。『藤氏家伝上巻にあたる鎌足伝記は「大織冠伝」と呼ばれる。 他には斉明天皇7年662年9月帰国して百済王位に就こうとする百済王豊璋に織冠を授けたとの記事があるが、大織とも小織ともない。このことから、大織小織は唐が高句麗・百済・新羅の王に一品当の官を授けたことにならい、外国の王に授けることを想定した冠位だったとする説がある。 他の大臣の例としては大繡巨勢徳多が最高である。

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叙位された人物

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小乙上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』にこの冠位をもって現れる人物には、白雉4年653年)の遣唐使副使になった吉士駒掃守小麻呂白雉5年654年)の遣唐使判官になった岡宜と置始大伯斉明天皇4年658年)に阿倍比羅夫服した蝦夷恩荷がいる。 吉士駒 - 白雉4年653年5月12日見 - 白雉5年654年7月まで。遣大唐副使として見え帰国小山上掃守小麻呂 - 白雉4年653年5月12日見、同年7月没。遣大唐副使。 岡宜 - 白雉5年654年2月見。遣大唐判官置始大伯 - 白雉5年654年2月見。遣大唐判官恩荷 - 斉明天皇4年658年4月叙位

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叙位された人物

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大錦上」の記事における「叙位された人物」の解説

『日本書紀』大錦上冠位見え人物には、孝徳天皇時代白雉5年654年2月の遣大唐押使高向玄理がいるが、この年大錦上冠位制定10年も前である。書紀は或本いわくとして、高玄理大花下と記す。 また、『続日本紀』によれば斉明天皇時代筑紫大宰帥阿倍比羅夫大錦上であった天智天皇信任され蘇我赤兄は、天智天皇8年669年10月19日天智天皇10年671年1月2日大錦上冠位見える。同じく大錦上中臣金同月5日左大臣になり、赤兄は右大臣になった同時に御史大夫になった大錦下巨勢人大紫に昇ったとする説に従うなら、両人大臣になってからさらに高い冠位を授ったと考えられるが、巨勢人大紫認めない説もある 天武天皇時代には、坂本財天武天皇2年673年5月29日大錦上死んだ天武天皇8年679年6月26日には、大伴杜屋大錦上死んだまた、江戸時代発見され小野毛人墓誌銘には、天武天皇のとき太政官刑部大卿で大錦上とあった。 死後の贈位大錦上になった人には、乙巳の変蘇我入鹿討った佐伯古麻呂(子麻呂)のほか、壬申の乱に功があった4人がいる。天武天皇8年679年2月3日紀訶多麻呂天武天皇9年680年5月21日秦綱手天武天皇11年682年3月舎人糠虫土師真敷である。 高向玄理 - 白雉5年654年2月。遣大唐押使阿倍比羅夫 - 大宰帥佐伯古麻呂佐伯子麻呂) - 天智天皇5年666年3月頃没。贈位により大錦上蘇我赤兄 - 天智天皇8年669年10月19日見 - 天智天皇10年671年1月2日見。右大臣中臣金 - 天智天皇10年671年1月5日見。左大臣坂本財 - 天武天皇2年673年5月29日没時。小紫贈位紀堅麻呂紀訶多麻呂) - 天武天皇8年679年2月3日贈位大伴杜屋 - 天武天皇8年679年6月26日没時。 秦綱手 - 天武天皇9年680年5月21日贈位生前小錦下舎人糠虫 - 天武天皇11年682年2月贈位生前小錦下土師真敷 - 天武天皇11年682年3月贈位小野毛人 - 天武天皇の頃。太政官刑部大卿。

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