ひたちふどき【常陸風土記】
常陸国風土記
常陸国風土記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 16:59 UTC 版)
奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり)(現在の茨城県那珂郡〈なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、以下のとおり、大昔の「大櫛之岡(おおくしのおか)」にいたという長大な人についての記述(平津駅家条)がある。 《 原 文 》 ※縮小文字は原本上の補足。※和字間隔は現代の補足。平津驛家西一二里 有岡 名曰 大櫛 上古有人 體極長大 身居丘壟之上 手摎海濱之蜃 大蛤也 其所食貝 積聚成岡 時人 取大朽之義 今謂大櫛之岡 其踐跡 長卌餘歩 廣廿餘歩 尿穴徑可廿餘歩許 — 『常陸國風土記』那賀略記 《書き下し文》 ※振り仮名は文語体。.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}平津駅家(ひらつのうまや)の西一二(いちに)里(り)に岡(をか)あり。名を大櫛(おほくし)と曰(い)ふ。上古(いにしへ)、人あり。體(かたち)は極(きは)めて長大(たけたか)く、身(み)は丘壟(をか)の上(うへ)に居(ゐ)ながら、手は海浜(うみべた)の蜃(うむき)を摎(くじ)りぬ。大蛤(おほうむき) 也(なり)。其(そ)の食(く)らひし貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成(なり)き。時人(ときのひと)、大朽(おほくち)の義(こころ)を取(と)りて、今は大櫛之岡(おほくしのをか)と謂(い)ふ。その践(ふ)みし跡(あと)は、長さ卌(しじふ) 歩(あし)余(あまり)、広さ廿(にじふ) 歩(あし)余(あまり)、尿穴(ゆまりのあな)の径(わたり) 廿(にじふ) 歩(あし)余(あまり) 許(ばかり)なり。 《口語解釈例》 ※振り仮名は口語体。[ ]内は文意を整えるための補足文。( )内の※に続く記述は注釈。[常陸国(ひたちのくに)の那賀郡(なかのこおり)にある交通の要衝・]平津駅家(ひらつのうまや)から西へ一二(いちに)里(り)もしくは1里・2里ほど行った所に岡(おか)(丘)があり、名を「大櫛(おおくし)」という。大昔、[この地に]人がいた。[その人の]体(からだ)は極めて長大(ちょうだい)で、岡の上にいながらにして手は海浜の蜃(うむき)を掘り起こしてしまう。[それほどの巨人であった。][ここでいう蜃(うむき)とは]大蛤(おおうむき)である(※『うむき(蜃、蛤)』はハマグリの古語)。その[巨人の]食べた貝[の殻]は、積もり積もって岡になった。当時の人(※現代〈すなわち、奈良時代〉の我々から見て大昔の人々)は[“大量の貝が朽ちている”意をもって、この岡を]「大朽(おおくち)」と呼んだが、[それが訛って]今は「大櫛之岡(おおくしのおか)」という(※比定地は大串貝塚(おおぐし かいづか)。その所在地は、現在の茨城県水戸市塩崎町1064-1、かつての東茨城郡常澄村塩崎)。その[巨人の]足跡は、おおよそ、長さ40歩あまり、幅20歩あまりで、尿の穴(※立ち小便によって穿たれた穴)は直径20歩あまりであった。 考古学等の諸分野においても、係る「大櫛之岡の巨人伝説」とその比定地・大串貝塚は相当に重要で、縄文時代の貝塚遺跡が文献に記されている最古の例、もっと言えば、石器時代遺跡の記録された日本最古の例として知られている。
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常陸国風土記
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常陸国風土記では晡時臥山の伝承は下記のように伝えられる。 茨城の里の北にある高い丘に晡時臥山があり、努賀毗古(ぬかびこ)と努賀毗咩(ぬかびめ)の二人の兄妹が住んでいた。妹の努賀毗咩の元にだれとも分からない求婚者が夜毎に現れた。妹が求婚を受け入れると一晩で身ごもり、やがて小さな蛇を産んだ。この蛇は夕暮れから夜明けの前までは母と会話ができた。努賀毗古も努賀毗咩も神の子ではないかと驚き、清めた坏に蛇を入れ祭壇に祀るようになった。蛇は一晩で杯いっぱいにまで成長したので、大きな杯に取り換えると、また蛇は杯いっぱいになるまで成長した。これを繰り返すうちに蛇に合う器が無くなってしまった。努賀毗咩は蛇に自分では養いきれないので父の元へ行くよう促した。蛇は悲しんだが、供に童子を一人付けてくれるよう頼んだ。努賀毗咩がここには兄と私しかいないのでつけることができないと告げると、蛇はこれを恨んだ。別れの時、蛇は怒って努賀毗古を殺し、天に上ろうとした。驚いた努賀毗咩が盆を取り蛇に投げつけると、神蛇はこれにより天に上ることができなくなり、この山に留まった。蛇を入れていた器は今でも片岡村に残されている。 常陸国風土記原文は次の通り。 茨城里自此以北高丘名曰晡時臥之山古老曰有兄妹二人兄名努賀毗古妹名努賀毗咩時妹在室有人不知姓名常就求夜来晝去遂成夫婦一夕懐妊至可産月終生小蛇明若無言闇与母語於是母伯驚竒心挾神子即盛浄杯設壇安置一夜之間已満坏中更易瓮而置之亦満瓮内如此三四不敢用器母告子云量汝器宇自知神子我属之勢不可養長冝従父在不合有此者時子哀泣拭面答云謹承母無敢辞然一身獨去無人左右望請矜副一小子母云我家有母与伯父是亦汝明知當無人相可従爰子含恨而事不吐之臨決別時不勝怒怨震殺伯父而昇天時母驚動取瓮投觸子不得昇因留此峯盛瓮今存片岡之村其子孫立社致祭相續不絶 — 常陸国風土記、那珂郡 この夜毎に現れて求婚をする正体不明な男や、生まれた子が問題となる伝承は、古事記に伝わる三輪山の伝承や山城国風土記逸文に伝えられる賀茂の伝承など類似するものが多い。また、肥前国風土記の褶振山の伝承でも夜毎に通う蛇の説話が伝えられる。
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