大串貝塚とは? わかりやすく解説

大串貝塚

名称: 大串貝塚
ふりがな おおくしかいづか
種別 史跡
種別2:
都道府県 茨城県
市区町村 水戸市塩崎町
管理団体
指定年月日 1970.05.11(昭和45.05.11)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S45-5-109[[大串貝塚]おおぐしかいづか].txt: 大串貝塚は那珂川と[[涸沼]ひぬま]川とによってつくられ沖積平野に、半島状に突出した高さ15.6メートルほどの台地先端部に位置する
 昭和11年18年調査結果、しじみを主体とする主淡貝塚で、土器・石器骨角器類が発見され繩文時代前期主として花積下層式)に属することが明らかにされた。
 本貝塚は『常陸国風土記那珂郡の条に記載されており、巨人台上住み、海に手をのばし貝をとって食料としたあとであるという大の岡の貝塚該当し古文献記録され最古貝塚として著名である。保存のよい東斜面貝塚1,703平方メートル指定された。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  大ノ瀬官衙遺跡  大中の湖南遺跡  大中遺跡  大串貝塚  大仏切通  大仙院書院庭園  大住車塚古墳

大串貝塚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 17:15 UTC 版)

大串貝塚。

座標: 北緯36度20分0.0秒 東経140度32分58.3秒 / 北緯36.333333度 東経140.549528度 / 36.333333; 140.549528

大串貝塚
大串貝塚ふれあい公園 水戸市埋蔵文化センター(損壊しているように見える部分は意図的にデザインされたもの[1]

大串貝塚(おおぐしかいづか)は、日本茨城県水戸市塩崎町1064-1[2]に所在する縄文時代前期の貝塚である[3][4][5]。『常陸国風土記』に巨人伝説の地「大櫛之岡」として言及されており(後述)、これは縄文時代(石器時代)の貝塚(遺跡)が古文献に記された最古の例として知られる[5][6][4][7]。遺跡の平坦部分は削平されているが、斜面の貝層部分は1970年昭和45年)5月11日付で国の史跡に指定されており「大串貝塚ふれあい公園」として整備されている[8]

概要

北関東東端部、太平洋に注ぐ那珂川下流右岸に所在する。那珂川の支流で、市域を東流して太平洋へ注ぐ涸沼川は、縄文時代前期には河口から涸沼方面へ向かって入江状に広がっていたと推測されており、本貝塚はその北岸標高25.6メートルの那珂台地の突端に位置する。

涸沼川を挟んで対岸の東茨城郡大洗町磯浜地区には、日下ヶ塚古墳(常陸鏡塚古墳)や磯浜車塚古墳などからなる磯浜古墳群が分布する。またこれらの古墳と大串貝塚の中間には律令制の交通拠点「平津駅家(ひらつのうまや)」があり、古より水上交通の要所であったと推測されている。

大串貝塚は、塩ヶ崎貝塚(しおがさき かいづか)とも大串丘貝塚[* 1]とも呼ばれていたことがあって、学会に知られるようになったのは、1885年明治22年)の頃からである。その後も小規模な発掘はあるが、遺跡全体を対象とする調査は行われていない。1936年(昭和11年)田沢金吾・大場磐雄らにより調査された[9]

貝層断面の一部

1943年(昭和18年)の発掘調査では、ヤマトシジミマシジミハマグリアサリカキアワビサザエなど、出土した貝類は淡水産と海産が混在しているから、入江状地形に川が流入するような土地に臨んでいたと考えられている。

戦後は1950年(昭和25年)日本考古研究所の酒詰仲男広瀬栄一らが調査し、縄文時代前期の花積下層式土器が出土する貝塚であることが明らかにされた。花積下層式と関山式に属する土器が出土した。1985年(昭和60年)の発掘で石鏃貝輪・貝刃・ヤス釣針などの骨角器や貝類、スズキタイフグなどの魚類、イノシシシカなどの獣骨が検出されている。

大櫛之岡

奈良時代に成立した『常陸国風土記』のうち、常陸国の那賀郡(なかのこおり[10])(現在の茨城県那珂郡なかぐん〉)について記された「那賀略記」には、平津駅家(ひらつのうまや)の西方にある、今(奈良時代)は「大櫛之岡(おおくしのおか、歴史的仮名遣:おほくしのをか)」と呼んでいる岡()には、大昔、“長大な人”がいたのだという旨の記述(平津駅家条)があり、この“長大な人”は近現代の民俗学をして日本の巨人の代表的存在である「ダイダラボッチ」の特に注目すべき一例であると見なされている。

平津驛家条には、「“長大な人”は、岡にいながら海浜に手を伸ばして大蛤(おおはまぐり)を掘り起こし食べていた[* 2]」、「食べ残しの貝殻が積もりに積もって岡になった」、「大昔の人は(“大量の貝が朽ちている”意をもって)この岡を『大朽(おおくち)』と呼んでいたが、それが訛って今では『大櫛之岡(おおくしのおか)』と呼んでいる」などといった旨の記述があり、近現代の学術的知見は、この大櫛之岡の比定地として大串貝塚を挙げている。

小説家松本清張は、1970年(昭和45年)、大櫛之岡の巨人伝説を材に採った推理小説『巨人の磯』を発表している(書籍化は1973年〈昭和48年〉)。

脚注

注釈

  1. ^ 読みは「おおぐしおか かいづか」もしくは「おおぐしのおか かいづか」と推定できるが、未確認。
  2. ^ インターネット上の記述で、本文中の「蜃」を妖怪の「(しん)」と関連付けるものが見られるが、ここで語られている「蜃(うむき、うむぎ)」は実体があって食用にされる貝類の「蛤(うむき、うむぎ)」、すなわち「蛤(はまぐり)」のことであって、妖怪ではない。

出典

  1. ^ 水戸市大串貝塚ふれあい公園(埋蔵文化財センター)(水戸市)”. うぃーくえんど茨城. ウェブファースト. 2021年2月22日閲覧。
  2. ^ 江戸時代における常陸国茨城郡塩ヶ崎村、幕藩体制下の水戸藩知行等塩ヶ崎村。奈良時代における常陸国那賀郡内にあたる。
  3. ^ 大串貝塚”. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  4. ^ a b 大串貝塚”. 小学館日本大百科全書:ニッポニカ』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  5. ^ a b 大串貝塚”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  6. ^ 大串貝塚”. 小学館『精選版 日本国語大辞典』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  7. ^ 大串貝塚”. 講談社『国指定史跡ガイド』. コトバンク. 2019年5月20日閲覧。
  8. ^ 大串貝塚(水戸市)
  9. ^ 調査の概要は大山史前学研究所『史前学雑誌』に発表された。
  10. ^ 衣袖漬常陸國風土記 香島郡/那賀郡

参考文献

  • 高根信和「大串貝塚」文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第1巻 原始1』同朋舎出版 1991年 ISBN 978-4-8104-0924-6

関連項目

外部リンク




大串貝塚と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大串貝塚」の関連用語

大串貝塚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大串貝塚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大串貝塚 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS