発表までの経緯
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乱歩は大正9年に東京の本郷で弟や友人と古本屋「三人書房」を開き、「智的小説刊行会」を興していた。乱歩はこの古本屋の2階で、友人と一日中探偵小説談議に明け暮れていた。この友人に話し聞かせていた探偵小説のアイディアが、本作の筋立てとなったのである。 乱歩は大正11年7月に化粧品製造業の支配人を辞めて失業し、東京の家を引き払って、妻と赤子とともに大阪の父親の家に転がり込んでいた。貧窮の中の乱歩の楽しみは、『新青年』を読んで探偵小説の世界に浸ることだった。『新青年』はポーやフリーマンの海外翻訳や、馬場孤蝶、小酒井不木、保篠竜緒などの探偵随筆を掲載していて、失業中だった乱歩は乏しい小遣いからこれを買って読み、胸を躍らせていた。のちに次のように回想している。 「『新青年』は三回目の増刊を出し、私は乏しい小遣いを割いてこれを買ったのだが、先の二冊の増刊とそれとを前に比べて眺めながら、私はいよいよ探偵小説を書くべき時が来たと思った。失業中のことだから時間は充分にある。もし、その原稿が売れれば、煙草代にも不自由している際、こんな有難いことはない。多年、培ってきた探偵小説への情熱を吐き出すのは今だ、と思った」 失業中の乱歩は「2、3か月の間、本当に何もしないでブラブラしていた」といい、あまりの所在のなさに「十万円欲しいなあ、たった五万円でもいい、そうすれば一万円で家を建てて云々という様な、虫のいい妄想を描く片手間に、小さなお膳だか机だかの前に座って、小さくなって書き上げたのが『二錢銅貨』と『一枚の切符』です」とこのときの様子を語っている。乱歩は東京の団子坂時代に大筋だけ考えていた『二錢銅貨』と『一枚の切符』の二編の推理小説を、2、3日で下書きし、大正11年9月末から10月にかけて手を加えて、改めて原稿用紙に書き写した。数え年29歳の時だった。作中の「私」の貧窮描写、「あの泥棒が羨ましい」といったセリフには、乱歩自身の当時の実態が反映していると言われる。 乱歩はこの二つの原稿を「当時、その方の親玉の様に思った」という馬場孤蝶に送ったが、半月ほどたっても返事がないため、憤懣やるかたない乱歩は、質問を箇条書きにした返信用の葉書を同封した「失礼千万な」封書を再送した。しばらくすると馬場から丁重な返事が来た。「樋口一葉の何回忌とかで長らく旅行中だった」との内容だった。乱歩は「邪推をし過ぎて大しくじりだ。なんともお詫びの仕様がない」とこのときの心境を大正15年に「探偵趣味」で述べている。乱歩は後日大阪から上京した際に馬場を訪ね無礼を詫びたが、馬場は意に介していない様子で、乱歩も安心したという。 なにはともあれ原稿を返送してもらったが、再度馬場に見てくれとも言えず、「探偵小説の本舞台」と認める『新青年』の森下雨村に返送料付きでこの原稿を送った。「すぐに送り返してくるだろう、ざまあみろと思っていた」という。返事はなかなか来ず、「目下原稿山積、急には読めない、『新青年』は翻訳物を主としているから日本人の書いた駄作なんて載せられない」というような葉書が来た。癪に障った乱歩は「読む暇がないなら直ちに送り返してくれ、『新青年』が翻訳物専門くらいのことは百も承知だ、もし幸いにして外国作品の間に混ぜることができたらと思って送ったのだ、駄投書家と一緒にされておたまりこぼしがあるものか」と森下宛に返事を書いた。 乱歩のこの一文にあてられた森下は原稿を一読、その内容の斬新さに驚いた森下は返書で本作を次のように絶賛し、「新青年」掲載の旨を返答した。 『二錢銅貨』を拝見し、すっかり感心させられました。『一枚の切符』も同様一気に拝見し、大変いい作品だと思いました。正直なところ、『新青年』へ載せた外国物の二、三の作などより遙かにいいものだと存じます。これだけの作ならば、無論、私の方へ掲載しても差支えありません」 これには乱歩も「入学試験に一番で合格したほどの喜びを感じ」、「流石に森下雨村眼があると、森下さん、ぐっと好きになった」と大喜びしたという。さらに森下は探偵作家小酒井不木にも本作を見せたところ、小酒井もこれを激賞。こうして本作は大正12年4月、『新青年』4月増刊号に掲載され、探偵作家江戸川乱歩デビューとなったのである。
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発表までの経緯
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前史には教学聖旨の起草(1879年)や幼学綱要の頒布(1882年)等、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動がある。 発布までには様々な教育観が対立した。学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視されたが、政府は自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動き、天皇は1879年の「教学聖旨」で仁義忠孝を核とした徳育の根本化の重要性を説いた。もっとも、教学聖旨は、儒教と読み書き算盤を柱とするあまりにも前近代的な内容であったため顧みられることはなかった。 1890年10月30日に発表された教育勅語は、山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、内閣総理大臣山縣有朋の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、文部大臣の榎本武揚に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山縣は腹心の芳川顕正を推薦した。これに対して、明治天皇は難色を示したが、山縣が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、天皇から箴言編集の命を請けた。編集作業は初め中村正直に委嘱され、法制局長官井上毅に移り、枢密顧問官元田永孚が協力する形で進行した。 中村原案について、山縣が井上毅・内閣法制局長官に示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山縣は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村原案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山縣の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。 一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。内容は3段からなり、第1段では天皇の有徳と臣民の忠誠が「国体ノ精華」にして「教育ノ淵源」であるとし、第2段では「父母ニ孝ニ」から「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に至る14の徳目を示し、第3段ではこれらの徳が「皇祖皇宗ノ遺訓」に発し永遠に遵守されるべき普遍妥当性を持つとする。 1890年(明治23年)10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。政治上の一般詔勅と区別するため大臣副署が無い。
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発表までの経緯
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「サイラス・マーナー」の記事における「発表までの経緯」の解説
エリオットにとって、初期小説の最後、あるいは中期に属する作品である。エリオットは小説家としてデビューしてから『牧師館物語(英語版)』、『アダム・ビード(英語版)』、『フロス河の水車場(英語版)』といった作品で田園を舞台にした物語を描き、好評価を得ていた。しかしエリオットは新たな境地を見つけるために、1860年にイタリアを旅行し、帰国後は歴史物語『ロモラ(英語版)』の執筆にとりかかった。ところが、執筆はなかなか進まず、代わりに突如として、「イングランド中部の昔風の村の生活を書きたい」という思いが沸き上がった。そして1860年9月30日から書き始められたのが『サイラス・マーナー』である。当初は韻文で書く予定であったが、ユーモラスな場面が書きにくかったため、散文で執筆された。 執筆中はエリオットにとって私生活で多忙な時期であったが、小説は約半年後の1861年3月10日に完成した。苦心していた『ロモラ』と異なり、本書はエリオットにとって良く知った世界を題材としていたので、その強みが生かされたとされている。結果として本書はエリオットにとって最後のノスタルジックな田園小説となった。 本書は1861年4月2日に出版された。出版後は高い評価を得て、商業的にも成功した。
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発表までの経緯
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水戸市は市内居住者または市内通勤・通学者より、以下の38カ所の候補地の中からまたは候補地以外でも「新水戸八景」にふさわしいと思う場所を1人8カ所まであげてもらう公募を1995年11月1日から12月11日の期間で実施した。結果、6,629通の応募があり、その応募を元に水戸市観光審議会が審議した。重複地域については範囲を広げて一つの選定地とするなどして、1996年3月8日に新水戸八景が発表された。 候補地一覧1.偕楽園と好文亭(常磐町) 2.八幡宮とお葉付イチョウ(八幡町) 3.偕楽園から見た千波湖(常磐町) 4.八幡宮からの那珂川方面の眺望(八幡町) 5.弘道館と大手橋(三の丸) 6.常磐神社(常磐町) 7.森林公園(全隈町) 8.植物公園(小吹町) 9.大塚池公園(大塚池) 10.県庁舎と堀(三の丸) 11.保和苑と桂岸寺(松本町) 12.香積寺(渡里町) 13.県立歴史館(緑町) 14.神崎寺(天王町) 15.千波大橋から見た千波湖(千波町) 16.金谷町公園(金谷町) 17.三菱銀行水戸支店(泉町) 18.三の丸歴史ロード(三の丸) 19.中根寺(加倉井町) 20.県近代美術館(千波町) 21.徳川博物館と彰考館(見川) 22.いちょう坂と大イチョウ(三の丸) 23.加倉井砂山の墓と鹿島神社(成沢町) 24.堀原運動公園(新原) 25.楮川ダム(田野町) 26.護国神社(見川) 27.少年自然の家(全隈町) 28.水戸二中のシイの木(三の丸) 29.黄門像(千波町) 30.曝井と滝坂(愛宕町) 31.六地蔵寺と桜(六反田町) 32.ダイダラボウと大串貝塚ふれあい公園(大串町) 33.備前堀(本町) 34.万代橋(根本町) 35.駅ペデストリアンデッキと黄門三人像(宮町) 36.七ツ洞公園(下国井町) 37.水戸芸術館(五軒町) 38.獅子石像(三の丸)
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発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 15:15 UTC 版)
1978 エジプト中部のある洞窟にて盗掘者がある写本を発見。詳細な場所は不明。 1980 カイロの古美術商ハンナ(仮名)に売却。のち、盗難に遭う。 1982 ハンナがスイスのジュネーヴにて写本を取り戻す。 1983 ハンナは3人の大学研究者に対し300万ドルで購入するよう交渉、決裂する。その3人の中にスティーブン・エメル(ドイツミュンスター大学古代パピルス文書研究者)がいた。 1984 ハンナ、ニューヨークシティバンク貸金庫に写本を16年間保管する(かなり劣化)。 1999 古美術商ディーラーのフリーダー・チャコスがハンナより30万ドルで写本を購入。イェール大学に調査を依頼。 2000 イェール大学がチャコスに写本はユダの福音書であると報告。 2000 米国の古美術商ブルース・フェリーニが写本を購入。フェリーニは写本の一部を売却し、残りを冷凍保存する(この処理によりさらに劣化)。 2001 写本の購入代金を払えずフェリーニはチャコスに写本を返却。写本はマエケナス古美術財団の所有になる。 2002 スイスのジュネーブにおいてユダの福音書の復元作業を開始。プロジェクトの主なメンバーは以下のとおり。ロドルフ・カッセル(スイスジュネーヴ大学コプト語学者) マービン・マイヤー(米国チャップマン大学ナグ・ハマディ文書研究者) スティーブン・エメル(ドイツミュンスター大学古代パピルス文書研究者) フローレンス・ダーブル(アトリエ・ド・レストラシオン古文書修復専門機関責任者) 2004 フェリーニが売却し紛失させたページが発見される。 2006 復元作業が完了。全体の85パーセントが復元。中途、解読はカット&ペーストで進められた。
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発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 17:53 UTC 版)
1893年、樗牛23歳のときに東京帝国大学文科大学哲学科に入学。その年の11月、「読売新聞」が1等賞100円、2等賞に金時計1個を賞品とした歴史小説を募集した。このときの審査員は尾崎紅葉、依田学海、高田半峯、坪内逍遥らだった。また、入選作品は読売新聞本誌で連載することが決められていた。 応募規則では、応募者は匿名で、入選した際に氏名と住所を通知することになっていた。また掲載時も本人の希望があれば名をふせることができた。 樗牛は、『平家物語』にある斎藤時頼(滝口入道)と横笛の悲恋を題材に小説を書き、応募規則にならい匿名で応募した。 1894年4月に結果発表された。応募作品は小説16編、脚本6編だったが、1等賞に該当する作品がなく、樗牛が匿名で応募した『滝口入道』が2等賞に当選し、33回にわたって連載されることになった。
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発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/20 16:20 UTC 版)
今週1位になったのは『MADE』の日本バージョンだが、2カ月遅れの日本盤であるのに初週で10.1万枚セールスを記録した。
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発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:03 UTC 版)
「ティファニーで朝食を」の記事における「発表までの経緯」の解説
ルイジアナ州ニューオーリンズに生まれたカポーティは1940年代にニューヨークへ上京し、『ザ・ニューヨーカー』の下働きをしつつ作家志望として『ミリアム』など作品投稿を行う。1948年には『遠い声 遠い部屋』でデビューし、翌1949年には短編集を刊行している。『ティファニーで朝食を』は1955年ころから執筆を開始し、身辺事情や掲載予定の女性誌『ハーパース・バザー』から掲載を拒否されるなど紆余曲折を経つつ、1958年に『エスクァイア』に発表された。
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発表までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 15:16 UTC 版)
「完全犯罪 (小栗虫太郎)」の記事における「発表までの経緯」の解説
小栗は1933年春に本作を書き上げると、一面識もなかった探偵小説家の甲賀三郎に送った。なお、甲賀と小栗は京華中学校の先輩と後輩の関係にあたるが、互いにその事実を知らなかったという。甲賀によれば、小栗は最初、600枚の長編を読んでほしいと手紙に書いてきたが、甲賀が「読むのも大変だし、よしいいものであっても、容易に発表の機会がない」ので「もう少し短いものを見せて呉れ」と返信したところ、小栗は『完全犯罪』を送ってきたという。本作を一読して「ストーリイの構成や、科学めいたトリックもいいが、背景の使い方と人物の配置に感心した」甲賀は、ただちに『新青年』編集長の水谷準への推薦状を書き上げた。作品に惚れこんだ甲賀は、水谷が掲載を渋った場合は、江戸川乱歩の応援を得ることも考えたという。 同年5月、小栗は甲賀の推薦状を携えて、水谷のもとに本作を持ち込んだ。もっとも水谷は、最初は書き出しのあたりだけを軽く走り読みしただけで、「大したことはなさそうだナ」と思い、ひとまず原稿を机にしまいこんだという。 『新青年』では、1933年新年号から、各号に巻頭作品として100枚程度の読切作品を掲載する、という企画を立てており、7月号(6月5日頃発売)では横溝正史の作品『死婚者』が掲載される予定になっていた。ところが5月はじめに横溝が結核による喀血で倒れてしまい、執筆不能となってしまう。あわてた水谷は、小栗の持ち込み原稿がちょうどいい長さであったことを思い出して取り急ぎ内容を確認し、読み終わるやいなや、「七月号はこれで行こう!」と決意したという。 掲載号の「編輯だより」には以下のようにある。 一〇〇枚物の「完全犯罪」は全くの新人の作。今月は横溝正史氏のものゝ予定であつたところ、作者が急に病気で執筆不可能となつたため、この力作と代へた。一読を願へば分る通り、この作は本格探偵小説としてはまさに申分のない出来栄と云はれよう。舞台や描写の点に読者の好き嫌ひもあらうが、ともかく最後の一行まで読んで、この新人の前途に祝福を寄せられよ — J・M、『新青年』第14巻第8号(1933年7月号) 小栗は数年後、新宿の飲み屋で横溝と飲んだ際、「自分はあなたが病気をしたおかげで、思いのほか早く世に出られた」とお礼の言葉を述べた。横溝は「そんなことはない、あなたはいつか世に出たひとだ、私の病気には関係ない」と打ち消し、「こんどあなたになにかあったときは私がかわってあげる」と付け加えた。終戦直後に小栗が急逝し、小栗の新作長編『悪霊』を連載するはずだった『ロック』誌が横溝に急遽代理原稿を頼んできた際に、横溝は「因縁めいたもの」を感じ、すでに『宝石』で『本陣殺人事件』の連載に着手していたにもかかわらず、『蝶々殺人事件』の連載を引き受けることになる。
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