こうぶん‐てい〔カウブン‐〕【好文亭】
好文亭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 21:43 UTC 版)
好文亭は、徳川斉昭自身により1840年(天保11年)4月に設計された水戸偕楽園内の施設。設計は二度の改定を受け、当初は平屋建ての構造だったものから木造二層三階建てに拡張されている。完成後、偕楽園内での居所、休憩所・敬老会・宴会など各種催しに利用された。偕楽園開園後も少しずつ手が加えられ、水戸城下柵町の中御殿の建物を移築増築して規模を拡大した他、1869年(明治2年)には奥御殿の一部を増築している。1873年(明治6年)12月に太政官布告により、庭園及び建物は常磐公園とされたが、その際には管理上の都合で一部縮小された。その後、大正元年に東宮行啓の際に、当初はなかった玄関が設置された。 藩主の居所としてではなく庶民とともに利用することを目的とした広い濡縁の間、飲食の類を三階まで運搬するために木製滑車を利用した昇降機の設置(人でなく物の運搬用としては日本現存最古)、物見引き手と称する建具連動式障子、色紙・短冊・懐紙を用いた板戸、漢詩作詞用に辞書としての韻字を書いた板戸など工夫をこらした建物である。玄関がないことなどを含め徳川斉昭の進取の気質が見てとれる。 1945年(昭和20年)の水戸空襲で大部分が焼失。1955年(昭和30年)から創建時の状態を出来るだけ復元する方向で再建工事が開始され1958年(昭和33年)に完成した。襖絵の大部分は須田珙中と教え子の田中青坪によって復元されたものである。1969年には落雷によって奥御殿が全焼したものの、襖絵は運び出され焼失を免れた。2016年から3年をかけ、襖絵全96面の大規模修復工事が行われている。 偕楽園公園(拡張部)から見た好文亭 「好文亭」の扁額 配膳用昇降機の木製滑車 待合の外観 待合の内部
※この「好文亭」の解説は、「偕楽園」の解説の一部です。
「好文亭」を含む「偕楽園」の記事については、「偕楽園」の概要を参照ください。
- 好文亭のページへのリンク