かん‐し【漢詩】
漢詩
漢詩
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日本人が作った漢詩の中には平仄が合っていても中国語での声調まで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい とされ、2006年(平成17年)には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。 漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、吉川幸次郎『漱石詩注』(1967年(昭和42年))があるが、これは漱石の造詣が深かった禅の用語などに関しては注釈がないなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。またそれに先立ち、1946年(昭和21年)、娘婿の松岡讓が『漱石の漢詩』 を出版している。2008年(平成20年)に作家の古井由吉により『漱石の漢詩』 が発表された。禅の観点から注釈されたものとしては飯田利行『新訳 漱石詩集』 がある。ほかに和田利男『漱石の漢詩』 がある。2016年1月25日に二松学舎大学が、漱石直筆の漢詩文屏風を古書店から購入したと発表した。屏風は2枚折り1対、1枚が縦1m62、横80cm。内容は『禅林句集』から春夏秋冬の場面が選ばれていた。
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漢詩
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癸亥冬日為、如登先生正原文書き下し文口語訳我学空門並学仙 我 空門を学び 並びに仙を学ぶ 私は仏教を学び、また仙道を学んだ。 朝看紅日暮蒼煙 朝に紅日を看 暮に蒼煙 朝には赤い太陽を、暮には青い靄を見た。 蓬莱一別方平老 蓬莱 一たび 方来の老いたるに別るるも 蓬莱国で年老いた王方平(中国語版)と別れたが、 不及王喬正少年 王喬の正に少年なるに及ばず 王喬(中国語版)はまだ若年にもなっていなかった。 太田南畝は「仙道」を科挙の比喩と見て、「詩意を味ふに不満の気甚し。想ふに落第の書生、医に逃れたるなるべし。」と評している。 在乍揚帆離山試筆為南畝先生雅正原文書き下し文口語訳人説洋中好 人は説く 洋中は好し 人々が日本はよい所だというので、 我亦試軽游 我も亦た 軽游を試む 私もちょっと渡航してみることにした。 掛帆初意穏 帆を掛く 初意穏かなり 帆を揚げた時、初め心は穏やかだったが、 風急繁心憂 風急にして 心憂繁し 風が強くなると、不安が募った。 漸漸離山遠 漸漸として 山を離るること遠く だんだんと山から遠ざかり、 滔々逐浪流 滔々として 浪を逐いて流る どうどうと波に従って進む。 不堪回憶想 回憶の想いに堪えず たまらず思い出が湧き出てきて、 郷思満腔愁 郷思 満腔愁う 郷愁が胸一杯に満ちる。 軽はずみな気持ちで来日したことを後悔する心境が表れている。 甲子初秋、於崎陽旅館、雨後聞蝉有感之作原文書き下し文口語訳一雨生涼思 一雨 涼思を生じ 雨が降って涼しく感じられ、 羇人感歳華 羇人 歳華に感ず 異郷にいる私は季節の移り変わりを感じる。 蝉声初到樹 蝉声 初めて樹に到り 初めて樹から蝉の声がして、 客夢不離家 客夢 家を離れず 異郷で見る夢は故郷のことばかり。 海北人情異 海北 人情異り 日本は社会事情が異なり、 江南去路賒 江南 去路賒(はる)かなり 江南省への距離は遥かに遠い。 故園児女在 故園 児女在り 故郷に息子と娘がいるが、 夜々卜灯花 夜々 灯花を卜せん 毎晩灯火の芯を折って私の帰国を占っているだろう。 結句は「私は毎晩子供が夢に現れるよう祈っている。」とも解される。
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唐の文宗は以下の詩を作った。最初の2行の「起」「承」は文宗、のこる「転」「結」2行を柳公権がそれぞれ作った。 人皆苦炎熱(人みな炎熱に苦しむ) 我愛夏日長(我夏の日の長きを愛す) 薫風自南来(薫風南より来る) 殿閣生微涼(殿閣微涼を生ず) この詩は北宋の蘇東坡によって批判された。大慧禅師はこの詩から大悟を得てから禅語となった。
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元の時代には、文学家、史学家の欧陽玄がこの地に来て、『大囲山』という詩を書いた: 「 大囲山高高幾許、絶頂嵯峨戴林塢。石隙花開自春夏、地炉僧擁無寒暑。清流白鷴滌毛距、緑樹黄熊引筋膂。山腰日午嬰児啼、知有雷公出行雨。 」
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津波古親方政正は北京語や英語などの語学に堪能な人物であった。琉球大学附属図書館や沖縄県立図書館に「東国興詩集」が所蔵されている。 東国興(津波古親方政正)が書いた物の1つに、「龍舟競渡歌」という漢詩がある。 「龍舟競渡歌」石榴如火然江頭 (石榴 火の如く江頭に然え)江頭人喧競龍舟 (江頭 人喧しく龍舟を競う)銀簫琅琅出人海 (銀簫 琅琅として人海のごとく出で)旌旗彷彿朱霞流 (旌旗 彷彿として朱霞流る)白珠亂跳波激箭 (白珠 乱れ跳び 波は激箭となり)後先相逐光閃電 (後先 相逐う 光は閃電す)郎君倚扇船傍坐 (郎君 扇に倚りて船の傍に坐し)呉裝佳人臨淵羨 (呉装の佳人 淵に臨みて羨む)君不聞靈均一去 (君聞かずや 霊均一たび去りて)令人憐湘江 (人をして湘江を憐ましむ を)江水清千年 (江水 清きこと千年)楚人因之爲龍船 (楚人 之に因りて爲に龍船をなす)今日龍舟徒戯顛 (今日の龍舟徒に戯き顛る)俯仰往事與今事 (俯仰す往事と今事)歸來獨吟離騒篇 (帰来して独り離騒篇を吟ず) (意訳):「火が赤く燃えるように石榴(ザクロ)の花が咲く岸、見物の人々のざわめきの中、いよいよ龍舟(ハーリー)の始まりだ。銀色の笛が鳥の清らかな囀りのように鳴る中、繰り出した人は数知れず、林立する旗が風にはためき、まるで朝焼けか夕焼けが赤く流れるよう。さて早くも競漕が始まると、枻の跳ね上げる白い水珠は乱れ飛び、波は矢のように走る。先を行く船、後を追う船、いずれ劣らず稲妻のように疾い。貴公子が、漕ぎ手に力を添える旗を持って船の傍に坐し、その美しい姿は、呉の美人も羨むほど。あなたは聞いたことがないか。屈原が去ってから、人々は湘江にいつまでも心惹かれ、憐れんでいるということを。その湘江の水は千年も変わらず清らかに澄んでいる。楚の人たちは、屈原のために龍舟の競漕をするようになったというが、今日の龍舟はわざと船を転覆させたりして、楽しい遊びのようだ。俯いたり仰いだりして、古のことや今のことに思いを巡らし、深い感慨を抱いて帰り、一人屈原を偲んで離騒(楚辞)を吟じる。」(「琉球漢詩の旅」より)
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大窪詩仏と初めて対面した際、「折梅贈人」の題を与えられ、「笑贈江南花一枝。鉄精為骨玉為肌。」と詠み、才能を保証された。詩仏には当時流行していた宋詩(中国語版)を学んだものの、頼山陽に自集『秀餐楼集』を酷評されたため、仁科白谷の勧めで梁川星巌に師事し、遂に岐蘇山中での詩を頼山陽に絶賛されたという。 実際に詩集を見ると、初期には正硬で理屈的な宋詩の傾向が見られるものの、王維・陸游の詩を学んだ結果、文政9年(1826年)28歳頃から唐詩の平淡さが見られるようになり、37歳頃神韻派の境地に達している。弘化2年(1845年)47歳頃には李白・杜甫を模範として格調派を会得し、弘化4年(1847年)49歳頃以降、神韻派と格調派の折衷を完成させた。 南朝古木鎖寒霏 南朝の古木、寒霏に鎖(とざ)さる 六百春秋一夢非 六百の春秋、一夢非なり 幾度問天天不答 幾度か天に問へども、天は答へず 金剛山下暮雲帰 金剛山下、暮雲帰る —「河内路上」 - 河内国金剛山麓に南朝方武将楠木正成の遺跡を訪れて詠んだ詩。 軽雨初晴微月浮 軽雨初めて晴れて、微月浮ぶ 西台寺畔緑蘋洲 西台寺畔、緑蘋の洲 春魚上鉤春潮緩 春魚鉤に上りて、春潮緩やかなり 好載阿嬌進細舟 好んで阿嬌を載せて、細舟を進む —「浅浦詩」 - 湯浅海岸の風俗を詠んだ竹枝詞(中国語版)。
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郁達夫は1910年より旧体詩を作っており、すこぶる有名である。王映霞と不和になった後、この事情を「毀家詩記」に組詩で明らかにしている。詩が十九首、詞が一首である。台湾の作家・劉心皇が編纂した『郁達夫詩詞彙編全集』(台北:台湾商務、1982)がある。
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嗣子・副島道正と、門人の武井義、鈴木於菟之助、佐々木哲太郎らが編纂した『蒼海全集』(大正6年)には、2千を超える漢詩が含まれている。 玉帛朝貢絶 山陵草古木 天子方憂思 人臣焉安處 副島を寒山寺に案内した清国の官僚が掘橋近くで開いた詩会にて、張継(『唐詩選』)の詩に似せた一首を作り驚かせた。 野富烟霞色天縦花柳春
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漢詩
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本書の中心となる部分であり、源氏物語各巻の内容を詠み込んだ漢詩であり、各巻ごとに巻名を挙げ、その後にその巻の内容を詠み込んだ漢詩を配している。各巻のほとんどを七言律詩(七言八句から成る律詩)の形式で詠んでいるが、鈴虫のみ七言絶句(七言四句から成る近体詩)の形式で詠んでいる。 それぞれの漢詩の前には以下のような巻名や巻序が記されている。 一桐壺 二帚木 虚蝉 夕顔 同二 三若紫 末摘花 並若紫 四紅葉賀 五花宴 六葵 七榊 八花散里 九陬磨 十明石 十一澪標 蓬生 澪標〃一 関屋 同二 十二絵合 十三松風 十四薄雲 十五槿 十六未通女 十七玉鬘 初音 玉鬘並一 胡蝶 同二 蛍 同三 常夏 同四 篝火 同五 野分 同六 御幸 同七 蘭 同八 被柱 同九 十八梅枝 十九藤裏葉 廿若菜 同下 廿一柏木 廿二横笛 鈴虫 横笛並 廿三夕霧 廿四御法 廿五幻 廿六雲隠 廿七匂兵部卿宮 又号薫中将 紅梅 匂兵部卿宮 並〃一 竹川 同二 宇治巻(写本によっては「宇治十巻」とするものもある) 一橋姫 又号優婆塞 二椎本 三総角 四早蕨 五寄生 又号白馬 六東屋 七浮舟 八蜻蛉 九手習 十夢浮橋 賦物語作者紫式部紫式部を詠んだ漢詩 これらの記述を巻名や巻序という点から見ると、実質的な内容は現行の54帖からなる源氏物語と同じものであり、巻序の数え方などについては、以下のような特徴を持っている。 多くの巻で巻名の上または下に巻序を示す数字が附されているが、この数字はこの時代では一般的な並びの巻を除いた「本の巻」のみを数えた数字である。 並びの巻については全体を通した巻序の数字は附されずに、例えば「末摘花 並若紫」「初音 玉鬘並一」等と記されている。 一部に「虚蝉」(空蝉)や「陬磨」(須磨)のような独特の巻名表記を含んでいる。 若菜については「若菜 二十」「同下」と二つの詩を記しているものの下巻には巻序の数字は附されていない。 雲隠については「廿六雲隠」と項目は立てられているものの、この巻に対応する漢詩は存在しない。また写本によっては「廿六雲隠 匂兵部卿宮 又号薫中将 廿七」として次巻の匂宮と併せて2巻で一つの詩のみを記しているものもある。 宇治十帖については、それまでとは別に橋姫の前に「宇治巻」「宇治十巻」などと注記した上で「三総角」等と宇治十帖の中でのみの序数を記している。
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漢詩
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英語通とされるが、宮澤自身は東洋的な思想を好むと述べ、しばしば好んで漢詩を引用する。宮澤は「わたしは英語通となっていますが、実は小さいころ漢学を習いましてね、どちらかといえば東洋的な思想が好きなんです。その漢学に王道と覇道というのがあるんです。つまり総理大臣という一国の宰相になるには自分でなろうとしてなるものでなく人から押し上げられて就く天命みたいなものだと思ってます。人を押しのけてまでというのは、わたしの性にあいませんね」と述べている。 また、総理退陣の時の心境として、王昌齢の「一片の氷心玉壷にあり」を挙げた。
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漢詩
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漢詩は、『喜安日記』(尚豊王時代)に菊隠(? - 1620年)らの漢詩がいくつか収められているように、当初は僧侶達によって作詩された。漢詩集では、程順則が編纂した『中山詩文集』(1725年)が琉球初である。個人の漢詩集としては、蔡鐸『観光堂遊草』、程順則『雪堂燕遊草』、程搏万『焚余稿』、周新命『翠雲楼詩箋』等がある。
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漢詩
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江村北海は、蛻巖の詩の中でも「徐文長の詠雪に和す」を「尖新にして精巧」と賞賛している。蛻巖はたびたび詩風を変え、成唐の詩人たちや袁中郎、鍾惺、譚元春などの影響を受ける。「天縦の才あり而して力を極めて鍛錬」し、晩年にいたるまで思いを字句に潜め続けた。浅野長祚が『寒檠璅綴』の中で、好学の士のための必読書として『蛻巖集』を挙げている。中根香亭は、新井白石・室鳩巣・三宅観瀾の詩と蛻巖の詩を比較し、「蛻巖は一生不遇で他の三人が栄達したのに遠く及ばないが、その風流高逸の境地は三人の夢想だにできないところである」と評している。
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漢詩
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題漁父図「漁父不交市俗塵。迢々舟路自相分。朝来晩去何飄忽。心事江天一片雲。」 皓図の一律「商山最高処。白髪日盤桓。履跡雲中路。棊声天外壇。風塵秦已遠。羽翼漢終安。不識歇成後。仙芝幾許餐。」 雀「翅翅不知短。頡頏脩竹叢。追糧無遠近。求宿又西東。緑樹林間雨。黄禾野外風。啁啾何所笑。鴻鵠在蒿蓬。」 山水「楼居四面好山川。無限風煙養浩然。一路遥分春澗樹。連峰高聳暮雲天。不疑仙境換凡骨。且就道入尋勝緑。指点泉源従此遡。桃花水送釣魚船。」 同「門外数株楊柳。北窓書巻横陳。克知名教中楽。便是羲皇上人。」 漁父「不向城中蹈軟塵。扁舟日趁白鴎群。朝来暮去何飄忽。心事江天一片雲。」
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漢詩
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韮山代官江川家では家臣の子弟を幼年期から代官所に出仕させ国学剣術等の基礎教育や狩猟に同行し銃操調連を実施している。石井修三は歌詠みの環境に育ち、蘭学のみならず漢詩にもすぐれた能力を発揮している。 偶成(ぐうせい) お殿様(江川坦庵公)から江戸へ蘭学留学が告げられた日の心境〈修三19歳〉遊禽無宿樹 豈図蒙恵風 西戎入寇日 粉骨報微功 習齊 拝 (意味) 思いがけず事が成る。 飛びめぐる鳥のように落ち着いて宿る樹もない私に、思ってもみなかったことに南風のような暖かいお殿様の恩恵を受けることができた。 西洋人が日本に攻め来る日には、力の限り努力し私の僅かな功をもって恩返ししようと思う。 墓碑に刻まれた辞世の七言絶句(修三29歳)蘭学研窮廿九秋 何圖忽染采薪憂 即今将向重泉去 罔極親恩幾世酬 石井周齊 (意味) 蘭学を研究して二十九年、図(はか)らずも病を得てしまった。 今この世を去るにあたって、親に恩返しは出来なかったけれども何時か世に酬いようと決心している。
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漢詩
「漢詩」の例文・使い方・用例・文例
- 脚韻と平仄が漢詩の基本的ルールとなっています。
- 彼はその漢詩を肉太に書いた。
- 君は漢詩を読んだことがありますか。
- 漢詩で句末に使う韻字
- 漢詩などにおいて,句の終わりに韻をふむために使う字
- 仮名詩という,漢詩形式にならった詩
- 漢詩の最初の句
- (漢詩文で)起句と結句
- 漢詩の起句と承句
- 漢詩の六義において,ある事物に感じた自分の思いを述べるもの
- 風刺をきかせ滑稽な内容をもった漢詩
- 絶句と律詩形式の漢詩
- 悲痛な調子の漢詩
- 隋以前の漢詩の一形式
- 中国唐代以前の漢詩の詩体
- 1句が5字から成る漢詩の句
- 1句が5字から成る漢詩の形式
- 五言絶句という,漢詩の形式
- 五言絶句という形式の漢詩
- 五言排律という,漢詩の形式
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