菅茶山とは? わかりやすく解説

かん‐さざん〔クワン‐〕【菅茶山】

読み方:かんさざん

[1748〜1827]江戸後期儒者漢詩人備後(びんご)の人。名は晋帥(ときのり)。通称、太仲。京都朱子学学び帰郷して黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開く。頼山陽の師。著「筆のすさび」「黄葉夕陽村舎詩」など。かんちゃざん


かん‐ちゃざん〔クワン‐〕【菅茶山】

読み方:かんちゃざん

かんさざん(菅茶山)


菅茶山

読み方かん ちゃざん

江戸後期儒者詩人備後生。名は晋帥、字は礼卿。那波魯堂儒学を学ぶ。私塾黄葉夕陽村舎開き頼春水山陽父子親しく交わる。詩集に『黄葉夕陽村舎』がある。文政10年(1827)歿、80才。

菅茶山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/16 05:11 UTC 版)

菅茶山
『近世名家肖像』より
誕生 菅喜太郎
(1748-02-29) 1748年2月29日
備後国安那郡川北村(現・広島県福山市神辺町
死没 (1827-10-03) 1827年10月3日(79歳没)
職業 儒学者漢詩人
言語 日本語漢文
ジャンル 漢詩・随筆
代表作 『黄葉夕陽村舎詩』
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菅 茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日1748年2月29日)- 文政10年8月13日1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者漢詩人は晋帥(ときのり)。は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。

経歴

農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都那波魯堂朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村大典顕常などと邂逅した。

故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。

塾は1796年(寛政8年)には福山藩郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという[1]。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))

廉塾の門人には、頼山陽北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。

大正4年(1915年)、従四位を追贈された[2]

「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。2014年(平成26年)8月21日には「菅茶山関係資料」が国の重要文化財に指定された[3]

脚注

  1. ^ 富士川英郎『江戸後期の詩人たち』麥書房、1966年、47頁。 のち平凡社東洋文庫で再刊。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.35
  3. ^ 「菅茶山関係資料」が、重要文化財に指定されました! 福山市、2022年8月27日閲覧。

参考文献

関連項目

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