江戸後期
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天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し天明の大飢饉が起こると、幕府は、天明6年(1786年)に諸国の酒造石高を五割にするよう減醸令を発し、天明8年(1788年)には酒株改めをおこない、その結果にもとづいて三分の一造り令などが示達された。松平定信は寛政の改革の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。 享和2年(1802年)水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。この米のことを十分の一役米という。酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年(1803年)に廃止された。 文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年(1806年)にふたたび勝手造り令を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な内部抗争を起こさせることになる。 天保8年(1837年)、山邑太左衛門によって宮水(みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた灘へと移っていった。
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江戸後期
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「新川 (東京都中央区)」の記事における「江戸後期」の解説
以降も沿岸開発により以下の町が成立した。 北新堀大川端町 - 北新堀町続きにあったが、正保年間御船手組屋敷となり、南新堀続きに移転した。 霊岸橋際請負地 - 享保年間埋め立てにより成立した。 霊岸橋際埋立地 - 明和年間の埋め立てで成立した。寛政11年(1799年)には蝦夷地産物会所、島会所が置かれた。 富島町一・二丁目 - 弘化2年(1845年)島西側が埋め立てられて成立した。 亀島川沿岸部は埋立が十分でなかったため足場が悪く、蒟蒻島と俗称された。同地域には岡場所が形成され、所属する私娼は蒟蒻芸者と呼ばれた。
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江戸後期
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1801年(享和元年)から1867年(慶応3年)を指す。 渓斎英泉は遊女屋や白粉屋の経営をしていた経験があり、それが美人画に活かされたのか、「婀娜あだ 」と呼ばれる、「鼻筋が通った面長で、つり目で受け口の歪曲された顔貌表現 」といった、その時代特有の美を示した。。 英泉と同時代の、名前の通り、京で活動した祇園井特も、大正期の甲斐荘楠音や岡本神草を想起させる、廃頽的とも言える美人肉筆画を描いた。文化・文政期(1804-30年)には、下唇が緑色に見える笹紅が流行り、その点も、現代人が異様さを受ける要因である。 葛飾北斎は、勝川春章の下で役者絵を描き、その後、俵屋宗理(そうり)を名乗り、独自の肉筆美人画様式を得、そして北斎を名乗る。銅版画を真似た名所絵木版実験作を発刊、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』で挿絵を担当し、馬琴との共著が続くこととなり、絵師としての名声を得る。その後『北斎漫画』もヒットし、版元西村屋与八と組んだ『富嶽三十六景』で輸入染料ベロ藍を用い、藍一色摺りや拭きぼかしを駆使し、斬新な構図も含め、広く世間に受け入れられる。その後西村屋と『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』を続けて版行し、版本『富嶽百景』も発表し、名所絵という新ジャンルを確立した。90歳で亡くなるまで絵師であり続けた。娘応為 は、晩年の父の作画を手伝ったと言われ、自身も明暗を強調した肉筆画を残した 。 方や歌川広重は、『東都名所』(1830-31・文政13-天保2年頃)で、「ベロ藍」を初めて用いるが、北斎に比べると、抑えた色使いであった。1834年(天保5年)頃、版元保永堂から『東海道五十三次』全55枚揃えを版行する。残存枚数及び版木の消耗具合から、相当売れたことが推察できる。また、55枚を画帖に仕立てたものもあり、武家や豪商も購入していたことが推測できる。上記2揃は、『富嶽三十六景』と版行時期が近いが、広重及び版元が北斎を意識していたと思われる。最晩年の1856-58年(安政3-5年)に、版元魚屋(さかなや・ととや )栄吉の下、目録を含め全120枚揃い(うち1枚は二代広重筆)の『名所江戸百景』が版行される。 本シリーズのベロ藍だけでなく、洋紅も用いられるが、『東都名所』同様、抑えられた色使いになっている。また広角レンズを用いたような、前景を極端に大きく画く「近接拡大法」を、多くの作品で採用している。全て縦長であることも、名所絵としては異例だが、『東都名所』で行ったのと同様、最初から画帖に仕立てる考えがあったからと思われる 。画帖は現在、東洋文庫等に収蔵されている。 歌川国貞は豊国門下で名を上げ、三代豊国を襲名する。柳亭種彦と組み、『偐紫田舎源氏』等の合巻の挿絵で成功を得る。役者絵や美人画でも人気を得、最晩年、版元恵比寿屋庄七での、役者大首絵シリーズ全60図は、生え際の彫りや空摺り・布目摺り、高価な顔料を用いる等、手間暇がかけられており、一枚百数十文から二百文で売られたようだ。市場の成熟ぶりが見られるが、このシリーズでは、出資者に関する史料が残っている。浮世絵師として、最も多くの作品を残したといわれる。 元 ・明期に成立し、日本でも読本に取り入れられて人気を得た「水滸伝」は、当然のごとく、浮世絵でも取り扱われる。歌川国芳は、版元加賀屋吉右衛門での『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズで人気を得る。2・3枚続きもあり、国貞の役者絵同様、高価だったと思われる。1843年(天保14年)の「源頼光公館土蜘作妖怪図(みなもとの よりみつこうの やかたに つちぐも ようかいを なすの ず)」は『太平記』に記される平安時代中期の逸話だが、版行後、「 天保の改革」(1831-33・天保12-14年)での贅沢禁止を揶揄し、12代将軍家慶 と 老中 水野忠邦を描き込んだと噂が立ち、加賀屋は摺物を回収、版木を削り落としたが、海賊版が横行した。なお、江戸時代は、大坂冬の陣・夏の陣 や、島原の乱を除けば、泰平の世であり、かつ織豊期以降の時代風刺は禁じられていたので、それ以前の史実を、当世の暗喩として表現する方法を取った。暗喩の有無を問わず、これらの作品を「武者絵」と呼ぶ 。 国芳は役者絵以外に、「戯画」も多く作画し、「金魚づくし」シリーズ等、動物を擬人化したり、「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」のように、複数の裸の男を組み合わせ、顔を表現したり、天保の改革で役者絵が禁止されたので、「荷宝蔵壁のむだ書」のように、壁のひっかき傷で役者をひそかに表現したりした。改革に抵抗し、笑い飛ばす姿勢が窺える。 1855年(安政2年)10月、江戸で大地震が発生し、その直後、「鯰絵」が多くの版元から版行された。ナマズが地震を起こすという言い伝えは、江戸時代中期からあった。ナマズは日本列島を下から支え、その頭部が鹿島神宮にあたり、神宮境内に鎮座する「要石(かなめいし)」でナマズを押さえていたと考えられたが、地震当日は神無月だった為、鹿島明神が出雲大社 での神々の会議で出払っていたせいで、地震を抑えられなかったと江戸の人々は考えた。その為、鹿島明神がナマズを要石で押さえつける鯰絵が緊急版行された。それ以外にも多くの図柄があり、ナマズが町人に地震を起こしたことを謝ったり、家屋の普請を手伝ったりする絵もある。緊急版行なので、改印および版元・絵師印は皆無だが、画風から歌川派作品が多いと推測される。前向きに生きていこうとする町人の勢いが垣間見える。 1854年(嘉永7年)3月、 日米和親条約により、200年以上に渡る「鎖国」は終焉した。58年(安政5年)には 日米修好通商条約及びオランダ・ ロシア・フランス・イギリスと、同等の条約が結ばれ、和親条約で定められた 下田・ 函館2港に加え、4港開港とそこでの居住が許された。その内、江戸から最も近い横浜は、翌59年(安政6年)に開放され、江戸・神奈川の人々は、これまでに見たこともない、外国人の顔貌や服装、建造物に興味を引かれた。その結果生まれたのが「横浜絵」である。1860年(安政7・万延元年)から1872年(明治5年)にかけて、大部分が江戸の版元から版行された。絵師は 歌川芳虎 ・ 芳員ら、国芳門下が多い。また、五姓田芳柳らによる、居留者の似顔を、絹地に在来顔料で陰影を付けて描き、それに和装姿をモンタージュした「絹こすり絵」(絹本肉筆画)も、横浜絵に含まれる 。 そんな時代の転換期、1866-67年(慶応2-3年)に、国芳の門人である月岡芳年と、芳年の弟子である落合芳幾による「英名二十八衆句」が版行された。これらの28点は、鶴屋南北作『東海道四谷怪談』の歌舞伎ものや、史実から取られ、全点が殺戮を描く「血みどろ絵」である。同時期に、土佐国の町絵師、絵金が芝居の題材を元に、「血みどろ絵」二双屏風を残したこれらの作品が生まれたのは、当時、実際に切り捨てられた屍骸を見る機会があったからだろうと指摘される。
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