江戸後期以降の演出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:57 UTC 版)
「芦屋道満大内鑑」の記事における「江戸後期以降の演出」の解説
現在、本作は「上方歌舞伎の演目」と一般には認識されている。これは上演場所として関西以西が多いこともあるが、それ以上に演出としてケレンを多用していることがその原因と考えられる。明治以降の東京における大歌舞伎ではケレンが邪道視されたという事情もあり、ケレンに対して寛容な上方歌舞伎中心に、本作が上演されるようになった。 いつからケレンが多用されるようになったかは不明だが、明和9年(1772年)までの評判記には、早替わりを除けば、ケレンに関する言及はない。一方、享和2年(1802年)、3代目瀬川路考が演じた『信田妻名残狐別』では、現在まで残るケレン「口筆」が演じられているので、初演から半世紀ほど経ったあたりからケレンが増えていったことが推測される。
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