江戸後期の河川事業とは? わかりやすく解説

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江戸後期の河川事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:37 UTC 版)

利根川」の記事における「江戸後期の河川事業」の解説

見沼代用水の項目も参照1716年正徳6年/享保元年紀伊藩であった徳川吉宗8代将軍となった吉宗享保の改革推進するその中で質素倹約と共に新田開発による年貢増徴により、厳し幕府財政建て直し志向する利根川河川開発においては勘定吟味役として紀伊藩であった井沢為永(弥惣兵衛)が60歳という高齢ありながら登用された。為永が実施した利根川水系河川開発として著名なのが見沼代用水開削である。 利根川中流武蔵国北部中部における農業用水水源としては1604年開削備前渠用水があるが、それ以前より見沼という沼を灌漑用水源として利用していた。見沼伊奈忠治により寛永年間現在のさいたま市緑区八丁堤という締切堤建設されダム化し、「見沼溜井」として1660年開削葛西用水路と共に重要な水源となっていた。しかし新田開発が進むに連れ灌漑用水需要増により見沼溜井供給量とのバランス崩壊し享保年間には用水不足が深刻化していた。このため吉宗は為永に対し1725年享保10年9月、「見沼代わる用水路」すなわち見沼代用水開削見沼干拓指示現在の行田市取水口設け2万9500間の用水開削星川経由しさらに用水は東縁と西縁に分かれ見沼溜井の両縁に沿って南下する1728年享保13年)に用水完成し303田畑1万2571町、石高換算で約149136石の農地灌漑恩恵を受けることとなった。また見沼代用水利用して1731年享保16年見沼通船堀開削され、用水水運にも利用される多目的用水路へと変化した通船堀に設けられ閘門パナマ運河と同じ方式で舟を運行させるが、同形式としては日本最古閘門である。 また上国内では現在の邑楽郡千代田町明和町にまたがる利根加用建設された。1839年天保10年同地31名主連名利根川からの取水による用水開削幕府嘆願したのが始まりで、用水不足に悩む同地対し利根川から谷田川に至る長さ700間の用水路整備された。ところが落差不足で十分に通水できず、1846年弘化3年)と1855年安政2年)の二度にわたり用水路改築実施された。 幕府による新田開発次第利根川下流域にも拡大するが、湖沼干拓による新田開発企図された。主なものとして手賀沼干拓印旛沼干拓がある。手賀沼場合1636年寛永13年)に干拓排水路である弁天堀が開削され、1661年万治4年/寛文元年)に本格的な干拓計画着手されたが挫折1671年寛文11年)に海野屋作兵衛の手により最初干拓成功し新田234町歩開発された。しかし1676年延宝4年以降1729年享保14年)、1739年元文4年)の干拓計画何れも洪水により挫折1785年天明5年)の幕府による大規模干拓事業完成間もなく利根川大洪水大きな被害を受けるなど満足な結果得られなかった。一方印旛沼干拓1724年享保9年)、染谷源右衛門幕府より6,000両を借用して開始した資金不足失敗。続く1783年安永10年/天明元年)には老中田沼意次が、1840年天保11年)には老中水野忠邦天保の改革一環として印旛沼開発計画着手したが、何れも計画立案した本人失脚して中止され結局実施されなかった。利根川下流域干拓唯一成功したのが十六島開発で、現在の香取市(旧佐原市周辺十六島呼ばれる砂州地帯新田開発であるが、常陸国江戸城主だった常陸土岐氏遺臣団が1590年より徳川家康許可得て上之島開拓したのを皮切りに1640年寛永17年)の磯山開拓まで14開拓された。 一方治水については1728年徳川吉宗井沢為永江戸川開削庄内古川分離工事命じたほか、1742年寛保2年8月利根川大水害後の復旧事業として寛保御手伝普請同年10月より着手され長州藩熊本藩津藩など西国10藩に対し幕命による河川工事が行われた。この事業木曽三川における薩摩藩宝暦治水同様、外様大名経済力削ぐための大名統制策の一環でもあった。しかし1783年天明3年7月発生した浅間山大噴火火砕流吾妻川流入して泥流となり利根川さらには江戸川にまで押し寄せ河床著し上昇堤防などの河川施設破壊によって洪水の危険性が増大した。この対策として堤防修築川底掘削、さらに1654年以来となる赤堀川の再掘削1843年天保14年)頃に実施され江戸川河水流入制限するために「棒出し」と呼ばれる水制同じく天保年間建設されている。享保以降幕府内における河川行政勘定吟味役井沢為永重用されたほか、「普請役」や「四川奉行」 の改廃経て河川行政勘定奉行5名による分担任務となったとはいえ普請を行うには関東郡代伊奈氏決裁が必要とされ、伊奈氏影響力はまだ高かった。しかし12伊奈忠尊の時1792年寛保4年不行跡理由改易され、家康以来河川事業深く関わった伊奈氏はその表舞台から消え以後幕末に至るまで勘定奉行支配下の「四川用水方普請役」が差配していく。 江戸時代通じ利根川東遷事業浅間山噴火対策など幕府治水事業により利根川膨大な河水渡良瀬川などと共にかつての香取海方面へと流下することとなった。これにより江戸含めた武蔵国方面では水害危険性減少し新田開発による石高増加著しくなった。さらに舟運海運航路整備され経済大動脈として利根川活用されるなどの効果もたらした反面利根川水面よりも標高が低い霞ヶ浦など下流低地において逆に水害の危険を増幅させ、明治以降利根川治水事業困難にしたという副作用生じている。

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