江戸文化と女性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 07:46 UTC 版)
中世から引き続き江戸時代初期までは芸能の担い手は女性であった。女舞、女能、女歌舞伎が御所でも催され、寺社や芝居小屋では歌舞伎舞に庶民が熱狂した。しかし1629年に幕府が男女打ち交じりの踊りや芝居舞台に女性が出ることを禁止する。現在伝統芸能の担い手の多くは男性であるが、これは近世からである。 文学 一方で筆を取って自己表現をした女性は多い。女性俳人では「元禄の四俳女」と言われた捨、智月、園、秋色や西国を行脚した諸九が著名である。また女性歌人も多く、賀茂真淵の門下である油谷倭文子、土岐筑波子、鵜殿餘野子は県門三才女と呼ばれた。 美術 女性画家としては狩野派の清原雪信や琳派の野々村国春、葛飾北斎の娘にあたる葛飾応為らがいる。また旅にでた女性は旅日記を記す。小田宅子の『東路日記』や西村美須の『多比能実知久佐(たびのみちくさ)』は女性たちの目を通して当時の風景や風俗を記している。 一方で女性たちは描かれる対象でもあった。美人画は遊女や水茶屋の女性が多く、喜多川歌麿の作品1900点のうち550点が吉原を題材としている。 音楽・舞踊 音楽においては、三味線の楽器としての構造と演奏が確立された。歌唱では江戸端唄が広まり、歌舞伎や庶民のはやり唄にもなった。芸妓出身の師匠がさまざまな身分の人々に唄を教え、連というグループを形成した。歌舞伎舞踊をもとに女性も踊れる日本舞踊が生まれ、関西では上方舞が人気となり、長唄の伴奏などの奏者にも女性が増えていった。農村の女性障害者をはじめ、故郷を離れて瞽女となった者がいた。瞽女となることは、障害者の女性にとって自立の手段にもなった。 幕末の1867年から1868年頃にかけて、武蔵や安芸で「ええじゃないか」と呼ばれた運動が流行した。年齢や性別を問わず踊り、女性が男性、男性が女性の衣服を着ることあり、そのほか仮装して踊ることもあった。「ええじゃないか」と類似の現象として、近畿地方のおかげ踊り、砂持、豊年踊り、東海地方の御鍬祭などが流行した。
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