ゆうじょ 【遊女】
遊女
遊女―新
遊女
遊女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/06 19:57 UTC 版)
遊女(ゆうじょ、あそびめ)は、遊廓や宿場で男性に性的サービスをする女性のことで、娼婦、売春婦の古い呼称[1]。「客を遊ばせる女」と言う意味が一般的である。
- ^ a b c 遊女『大百科事典』 (平凡社、1935年)
- ^ a b c 齋藤茂「妓女と中国文人」(東方選書、2000年)p.5
- ^ 斉藤2000,p.6
- ^ 『更級日記』。本項#歴史を参照。
- ^ アソビ(遊)『大百科事典 第1巻』
- ^ 国立国会図書館. “沖縄のジュリ(尾類)についての資料はあるか。”. レファレンス協同データベース. 2021年5月28日閲覧。
- ^ a b c d e 公娼『大百科事典 第9巻』 (平凡社、1935年)
- ^ 網野善彦 他 『日本中世史像の再検討』 山川出版社、1版6刷1998年(1刷88年) p.17.
- ^ a b c 嶽本新奈「境界を超える女性たちと近代―海外日本人娼婦の表象を中心として―」一橋大学、博士論文、p. 15
- ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
- ^ 下重清『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、160頁
- ^ a b c d e f 宮本由紀子「丸山遊女の生活 ‐「長崎奉行所判決記録 犯科帳」を中心として」(『駒澤史学』31巻、1984年3月) p.19-46
- ^ 私娼『大百科事典. 第11巻』 (平凡社, 1935)
- ^ 沼田次郎・荒瀬進共訳『ポンぺ日本滞在見聞記』雄松堂、1968年、p337, p344
- ^ a b c 関口すみ子『御一新とジェンダー:荻生徂徠から教育勅語まで』 東京大学出版会、2005年 ISBN 4130362232 pp.263-277.
- ^ 慶応義塾出版社、1876年
- ^ 『性欲の文化史』p.25 - 、p.128 -、『うるま新報』1946年2月20日「闇の女の増加に文相頭痛」(醜業婦との記述もあり)、『戦後性風俗大系』p.12 -
- ^ 『柏崎華街志』小田金平 編 (小田金平, 1909)
- ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 大正12
- ^ 娼妓の外出自由を認める『中外商業新報』昭和8年5月16日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p318 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『大辞泉』
遊女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:19 UTC 版)
禿(かむろ):おかっぱ頭。江戸時代前期から遊里の少女「かぶろ」の髪形として知られる。 禿島田(かむろしまだ):細長い高島田。江戸時代後期から遊里の少女「かぶろ」の髪形として知られる。 唐輪(からわ):江戸時代前期京阪で流行。 立兵庫(たてひょうご):江戸時代前期京阪を中心に流行。 横兵庫(よこひょうご):立兵庫から派生。花魁(太夫級の遊女)の髪形として有名。 勝山髷:遊女勝山が流行させた武家風の髷。 くるわつぶし:つぶし島田の一種。中級の遊女が結った。髷の横幅が広い。
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遊女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 04:25 UTC 版)
かつて遊女が男に対し相愛誓約の証として、自らの小指または髪を切り渡したり、腕などに男の名を入れ墨することがあり、これを「指切髪切り入れ黒子」と称した。天和3年(1683年)の世継曾我には「自らも十郎様とは新造の昔より、馴染を重ね参らせて、ゆびきりかみ切いれぼくろ」の記述がある。また、この行為を特に心中立てとも称した。 詳細は「心中#心中立」を参照
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遊女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:48 UTC 版)
多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間までは、年季を明ける率は常に8割を超えた。ただし遊女の大部分は性病などの感染症に罹患しており、また栄養失調、不衛生な集団生活などで健康状態も悪く、商品価値のない遊女や死期の迫った者は、葬儀等の手間を省くために店側が年季を放棄する、実質的な解雇や放逐によって年季明けしたにすぎない、と見る指摘もある。(永井義男『図説吉原入門』学研) 一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。一説には「心中」「枕荒らし(客の財布を盗む事)」「起請文(お気に入りの客に宛てた手紙)乱発」「足抜け(脱走)」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者の遺骸は、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされているが、逆に畜生道に落とさないための方法ともされる[疑問点 – ノート]。なお、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政2年10月2日(1855年11月11日))の安政江戸地震で600人余の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによる。 遊女にはランクがあり、美貌と機知を兼ね備え、男性の人気を集めることが出来る女性であれば、遊女の中でも高いランクに登ることが出来た。遊女の最高のランクは宝暦年間まで太夫と呼ばれ、以下「局」「端」とされていたが、江戸の湯屋を吉原に強制移転したさいに「散茶」が構成され、その後は花魁とよばれた。花魁は振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿とよばれる子供を従えており、気に入らない男性は、相手にしてもらえなかった。 そのような中で、粋に振舞うことが男性のステータスと考えられていた。そしてまた、客から金品を貢がせるのが遊女のテクニックではあったが、その理由として遊女の生活用品や光熱にかかる費用、また妹分の禿や新造への養育費、また自身の装身具、化粧品などはすべて遊女の自己負担であり、高級遊女になるほど負担額が増えるという店のシステムにも起因すると考えられる。しかし、現代で言う「ボッタクリ」を店が行うことは良しとはされず、ぼったくり行為を行った店の主人が処刑された例もある。 江戸時代の多くの時代を通じて、ランクの高い見世(遊女屋、妓家)の遊女と遊ぶためには、待合茶屋(吉原では「引手茶屋」と呼ばれる)に入り、そこに遊女を呼んでもらい宴席を設け、その後、茶屋男の案内で見世へ登楼する必要があった。茶屋には席料、料理屋には料理代、見世には揚げ代(遊女が相手をする代金)が入る仕組みであった。 吉原遊廓では、ひとりの遊女と馴染みとなると、他の遊女へは登楼してはならないという掟があった。ほかの遊女と登楼すると、その遊女の周辺から馴染みの遊女のもとに知らせが行き、裏切った客は、馴染みの遊女の振袖新造たちに、次の朝に出てくるところを捕まえられて、髷を切り落とされるなど、ひどい目に遭う男もいたとされる。
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