遊女の取り締まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 02:32 UTC 版)
甲州街道の内藤新宿では、次第に旅籠屋や茶屋が増え、岡場所としても賑わった。宿場に遊女を置くことは認められていなかったが、客に給仕をするという名目で飯盛女・茶屋女として置かれていた。享保3年(1718年)には、宿場内に旅籠屋が52軒という記録が残っている。しかし、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象地になり、これが宿場廃止の原因の一つになったという。したがって、享保三年(1718年)10月に内藤新宿は幕府によって廃止された。 その後、明和元年(1764年)に、幕府はそれまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更。品川宿は500人、板橋宿・千住宿は150人までと定められ、結果として飯盛女の大幅な増員が認められた。 ところで、内藤新宿は明和九年(1772年)高松喜六(5代目)の請願によって再開の許可が下りた。また、再開に際して内藤新宿の飯盛女は、板橋宿・千住宿と同じく宿場全体で150人までと定められた。
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