品川宿とは? わかりやすく解説

品川宿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/09 15:31 UTC 版)

品川宿
品川 日乃出」
歌川広重東海道五十三次』 より
御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。
種類 古代宿場
所在地 東京都品川区品川
座標 北緯35度37分12秒 東経139度44分32秒 / 北緯35.619974度 東経139.742148度 / 35.619974; 139.742148座標: 北緯35度37分12秒 東経139度44分32秒 / 北緯35.619974度 東経139.742148度 / 35.619974; 139.742148
東京都区部における品川宿の位置
品川宿 (関東地方)

品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道板橋宿甲州街道内藤新宿日光街道奥州街道千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた[1]

開発

慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。

品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、他の江戸四宿と比べて旅籠屋の数や参勤交代の大名通過の数が多かった[2]

目黒川を境に区分され、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を 歩行新宿 かちしんしゅくと呼んだ[3]

  • 歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬 歩行人足 かちにんそくのうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた[3]
江戸から品川宿、「東海道分間絵図」

品川宿の遊郭

岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても栄えた。1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した[2]1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している[4]

西沢一鳳の江戸見聞録『 皇都午睡 みやこのひるね』(1850)では、幕末当時の賑わいを「高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。 (中略) 女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮・金ぴら・大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし。」と書いている[5]。「居残り佐平次」、「品川心中」など古典落語の廓噺の舞台ともなった。

歴史

江戸時代

1858年(安政5年)、コレラの流行などにより東海道の各宿場が困窮。品川を含めた53宿で、人馬賃銭を7割値上げした[6]

1886年(慶応2年)、北品川徒歩新宿で出火し、南品川に向かい延焼。大抵の大きな旅籠が焼失する被害[7]

明治以降

1869年(明治2年)、武蔵知県事の管轄区域内に品川県が設置された。

1871年(明治4年)、北品川の北に、品川駅舎の工事着工。

1872年(明治5年)の宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われたが、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運・用水の便から大規模工場が立地、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並んだ。

その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、売春防止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された。一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退した。その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残される形となったが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られている。

名所・旧跡

東海道品川御殿山ノ不二
葛飾北斎富嶽三十六景』 より
  • 御殿山 - 江戸時代初期から元禄にかけて将軍家の鷹狩りの地となり、休息所として品川御殿が設けられた。享保期には庶民に開放され、桜の名所として賑う。幕末期に品川台場築造の土砂採取で一部が切り崩され、明治期には鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなっている。
  • 土蔵相模 - 幕末の志士たちが、時に密議を凝らし、時に遊女と遊んだ宿。
  • 幕府御用宿釜屋跡 - 土方歳三新撰組が定宿としていた茶屋。
  • 品川寺 - 空海開山の寺。江戸六地蔵第一番や洋行還りの大梵鐘、樹齢推定300年の大銀杏などで知られる。
  • 東海寺 - 大徳寺住持沢庵宗彭のために三代将軍徳川家光が建立した。
  • 鈴ヶ森刑場

ギャラリー

隣の宿場

江戸日本橋) - 品川宿 - 川崎宿

脚注

注釈

出典

  1. ^ ロム・インターナショナル(編) 2005, p. 144.
  2. ^ a b 末吉恵, 菊地俊夫、「旧宿場町の歴史資源を活かしたまちづくりの構造とその地域性 : 品川宿と千住宿の比較研究」『観光科学研究』 2009年 2号 p.65-84, hdl:10748/4080, 首都大学東京 大学院都市環境科学研究科地理環境科学専攻 観光科学専修
  3. ^ a b 現在の北品川本通り商店街から品川区北品川2-2-14の法善寺辺りまで。歩行新宿しながわ観光協会
  4. ^ 『百万都市江戸の生活』p42(北原進著)角川選書
  5. ^ 本学蔵東海道関係浮世絵(三)山下琢巳、東京成徳短期大学紀要 2011
  6. ^ 池田正一郎『日本災変通志』新人物往来社、2004年12月15日、695頁。 ISBN 4-404-03190-4 
  7. ^ 池田正一郎『日本災変通志』p.719

参考文献

  • ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』河出書房新社〈KAWADE夢文庫〉、2005年2月1日。 ISBN 4-309-49566-4 

関連項目

外部リンク


品川宿

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国道15号」の記事における「品川宿」の解説

現在の品川区付近にあった、東海道五十三次江戸から最初宿場である。

※この「品川宿」の解説は、「国道15号」の解説の一部です。
「品川宿」を含む「国道15号」の記事については、「国道15号」の概要を参照ください。

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