東海道とは? わかりやすく解説

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とうかい‐どう〔‐ダウ〕【東海道】

読み方:とうかいどう

[一]五畿七道の一。伊賀伊勢・志摩尾張三河遠江(とおとうみ)・駿河甲斐伊豆・相模武蔵安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもうさ)・常陸(ひたち)の15か国

[二]江戸時代五街道の一。江戸から太平洋沿いに京都に至る街道。現在、その大部分が国1号線重なる。→東海道五十三次

東海道の画像
東海道の15か国

東海道

作者川端康成

収載図書天授の子
出版社新潮社
刊行年月1999.6
シリーズ名新潮文庫


東海道

作者白石一郎

収載図書十時半睡事件帖―東海道をゆく
出版社講談社
刊行年月2002.2

収載図書東海道をゆく―十時半睡事件帖
出版社講談社
刊行年月2006.2
シリーズ名講談社文庫


東海道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/06 08:36 UTC 版)

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路古代から近世)を指す。


注釈

  1. ^ 東海道各国の国府を駅路で結び、東海道に巡察に派遣された官人が順に移動した。
  2. ^ 中世や江戸時代よりも道幅は広く、直線的に建設された。
  3. ^ したがって、771年までは東海道は東京湾岸の多摩川利根川太日川は渡河しなかった。
  4. ^ 概ね後の初瀬街道、現在の国道165号線に沿ったルートであったと想定される。
  5. ^ これが判明したのは、静岡市葵区長沼・駿河区東静岡にある曲金北遺跡が発掘され、1994年(平成6年)4月から1995年(平成7年)5月にかけて東静岡駅前開発に伴い行われた発掘調査で、古代東海道と見られる幅約9メートル、両脇の側溝幅2~3メートルの大型直線道路が発見されたためである。
  6. ^ ただし相模国の東海道および相模国府(相模国中部)の位置には諸説がある。
  7. ^ 走水も富津も歴史的に重要な地で、海上交通路で結ばれていた(浦賀水道)。
  8. ^ ただし東山道に属する武蔵国を東山道武蔵路を通って公務上管理することは非効率的であった。
  9. ^ 帰化人も多く移り住んだ。
  10. ^ 多摩川を関戸の渡しで渡った。
  11. ^ この経路が現在に至る水戸街道の原型となった。
  12. ^ 手賀沼と当時の常陸川とに南北を挟まれ東西に細長く伸びるこの台地上を東へ進み東端の布川(利根町)に達し(江戸時代以前は布佐我孫子市)と布川(利根町)との間は掘割りは無く、台地上を道が通じていた)、そこから北上し当時の常陸川鬼怒川を渡船した。当時は鬼怒川小貝川香取海へ注ぐ氾濫原を通り柏市土浦市とを直線的に結ぶことはできなかった。
  13. ^ 当時、この付近は常陸川が現在の新利根川を流れ、鬼怒川龍ケ崎市利根町との間を流れていた。
  14. ^ 海道記』『東関紀行』『十六夜日記』は、いずれも京都 - 鎌倉間の東海道を旅した鎌倉時代の旅日記文学である。
  15. ^ 厳密にいえば豊橋 - 熱田間のルートは、東海道本線よりもむしろ名鉄名古屋本線の方が江戸時代の東海道に近いルートになっている。また大津 - 京都間も建設当初は東山を越えることができずに稲荷駅経由で南側の大岩街道へと迂回することになった。
  16. ^ 昭和初期に構想されたものの実現できなかった名古屋急行電鉄も、鈴鹿山脈をトンネルで越える旧東海道沿いのルートであった。

出典

  1. ^ a b c d e 浅井建爾 2001, p. 88.
  2. ^ 浅井建爾 2001, p. 87.
  3. ^ a b 北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7
  4. ^ a b 武部健一 2015, p. 64.
  5. ^ 静岡県埋蔵文化財調査研究所 1996
  6. ^ 「千葉県の歴史 - 通史編」千葉県、2001年
  7. ^ 武部健一 2015, p. 74–75.
  8. ^ 武部健一 2015, pp. 77–78.
  9. ^ 武部健一 2015, pp. 75–76.
  10. ^ 武部健一 2015, pp. 76–77.
  11. ^ 武部健一 2015, p. 78.
  12. ^ 武部健一 2015, p. 79.
  13. ^ 武部健一 2015, p. 80.
  14. ^ 名古屋市:鎌倉街道.
  15. ^ a b c d e f g h 浅井建爾 2001, pp. 96–97.
  16. ^ a b 浅井建爾 2001, pp. 98–99.
  17. ^ a b 浅井建爾 2001, pp. 100–101.
  18. ^ a b 武部健一 2015, pp. 106–108.
  19. ^ 浅井建爾 2001, pp. 94–95.
  20. ^ 武部健一 2015, p. 105.
  21. ^ a b 国史研究会 編 『廃仏毀釈』岩波書店〈岩波講座日本歴史〉、1935年、51頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/27 
  22. ^ 浅井建爾 2001, p. 128.
  23. ^ 伊勢湾を干拓して生まれた水郷のまち・弥富市 (PDF) 」 『KISSO』第73巻、国土交通省中部整備局木曽川下流河川事務所調査課、2010年1月、2022年3月13日閲覧。


「東海道」の続きの解説一覧

東海道

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令制国一覧」の記事における「東海道」の解説

伊賀国 いが(伊州伊勢国 いせ(勢州志摩国 しま(志州) - 8世紀初めまでに伊勢国より分立。 尾張国 おわり/をはり(尾州三河国 みかわ/みかは(三州参州遠江国 とおとうみ/とほたふみ(遠州駿河国 するが(駿州伊豆国 いず/いづ(豆州) - 680年駿河国より分立。 甲斐国 かい/かひ(甲州相模国 さがみ(相州武蔵国 むさし(武州) - 771年東山道から東海道に所属変更安房国 あわ/あは(房州安州) - 718年上総国より分立。741年上総国併合される757年分立上総国 かずさ/かづさ(総州下総国 しもうさ/しもふさ総州常陸国 ひたち(常州

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東海道(東海道五十三次)

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五街道」の記事における「東海道(東海道五十三次)」の解説

1624年寛永元年完成江戸・日本橋から小田原駿府浜松、宮、桑名草津経て京都三条大橋までの五十三次(約500 km)。江戸幕府のある江戸から帝の座す京都まで始点から終点までの五十五地点を結ぶ道。延長にあたる京街道 (大坂街道)の4宿も加えて五十七次ともいう。

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東海道

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近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「東海道」の解説

伊賀 上野 (伊賀上野) 元号西暦町方人口享保12年 1727年 11,195 寛延宝暦年中 1750年頃 8,342 享和3年 1803年 8,459 明治5年 (総数) 1872年 12,019 明治6年 (総数) 1873年 12,385 (典拠は『上野市史』) 伊勢 桑名 延宝7年1679年)の桑名藩家中人口は9648人であり、武家人口を含む桑名総人口は約22000人と推定される元号西暦町方人口延宝7年 1679年 12,520 元禄宝永年中 1700年13,160 宝永7年 1710年 11,902 寛延3年 1750年 10,857 文政6年 1822年 8,527 天保14年 1843年 8,848 明治6年 (総数) 1873年 18,064 (典拠は『桑名市史』、『東海道宿村大概帳』) 神戸 (鈴鹿) 天明8年1788年)の町方人口は2173人(典拠は『角川地名辞典』)。明治6年1873年)の人口は2694人。 四日市 元号西暦町方人口天和3年 1683年 4,612 享保9年 1724年 5,868 寛政4年 1792年 5,912 享和元年 1801年 6,444 文化8年 1811年 6,293 天保9年 1838年 6,722 天保14年 1843年 7,114 弘化4年 1847年 7,461 慶応4年 1868年 7,225 明治6年 (総数) 1873年 9,722 (典拠は『四日市市史』、『東海道宿村大概帳』) 亀山 元号西暦町方人口寛文9年1669年頃 1,887 寛政7年 1795年 1,743 明治6年 (総数) 1873年 5,245 (典拠は『亀山地方郷土史』) 安濃津 (津) 町支配ではない町続き戸数天和元年1881年)に580軒。藩士戸数宝暦元年1751年)に313軒。 元号西暦町方人口寛文5年 1665年 12,205 寛文6年 1666年 12,261 寛文9年 1669年 11,942 貞享2年 1685年 11,190 貞享5年 1688年 11,848 元禄14年 1701年 11,648 宝永元年 1704年 10,752 享保2年 1717年 10,077 享保14年 1727年 11,305 享保16年 1731年 11,262 宝暦9年 (男15歳以上, 女13歳以上) 1759年 7,170 明治6年 (総数) 1873年 22,080 (典拠は『津市史』) 松坂 元号西暦町方人口元禄12年 (8歳以上) 1699年 8,197 安政2年 (8歳以上) 1855年 4,948 明治2年 (8歳以上) 1869年 4,356 明治6年 (総数) 1873年 8,781 (典拠は『松阪市史』、『南紀徳川史』) 宇治・山田 鎌倉時代までには伊勢神宮門前町形成され室町時代後半には外宮山田三方内宮宇治六郷という自治組織成立した江戸時代度々流行したお蔭参り参拝者数で驚くべき数字伝わっているものの信頼性は低い。 元号西暦合計外宮町方(山田) 内宮町方(宇治) その他寛永12年 (15歳以上) 1635年 23,622 寛永14年 1637年 34,701 30,929 3,592 180 正徳6年 1716年 39,621 明治6年 (総数) 1873年 22,473 (典拠は『宇治山田市史』、『近世山田町資料』) 志摩 鳥羽 (志摩鳥羽) 寛永3年1850年)の町方屋敷816軒、安政4年1857年)の武家屋敷396軒。寛政6年1794年)の町方人口鳥羽町2961人、他所組下196人、外(欠落)119人を含む。 元号西暦町方人口正徳3年 1713年 4,380 延享2年 1745年 3,873 寛政6年 1794年 3,276 明治6年 (総数) 1873年 4,746 (典拠は『鳥羽市史』) 尾張 名古屋 明治初年調査では名古屋藩武家人口は約5万人であり、最盛期総人口10万人を越えた推定される寛文9年1669年)の人口寺社門前地を含む。 元号西暦町方本町以西七間町以東承応3年 1654年 54,932 29,744 25,188 万治2年 1659年 55,127 30,121 25,006 寛文4年 1664年 54,998 29,769 25,229 寛文9年 1669年 55,849 延宝2年 1674年 56,636 貞亭元年 1684年 54,118 元禄2年 1689年 57,843 元禄5年 1692年 63,734 元禄7年 1694年 55,665 享保6年 1721年 42,135 享保11年 1726年 50,375 享保13年1728年)、愛知郡井村名古屋押切村栄村日置村古渡村春日井郡前津小林枇杷島村杉村大曽根村拡大していた町続全て町方支配となった宝暦3年1753年)には町中1753軒に対し町続5592軒、寺社門前1072軒、合計1万2623軒と、町中戸数町続戸数がほぼ同数になっている慶応元年1865年)の人口町中34300人、寺社門前6743人、町続之分32060人、医師757人、浪人103人を含む。明治4年1871年)の人口町中寺社門前・町続69618人、医師僧尼祢宜2080人を含む。 元号西暦町方人口寛延3年 1750年 72,583 天保11年 1840年 75,779 慶応元年 1865年 73,963 明治4年 1871年 71,698 明治6年 (総数) 1873年 125,193 (典拠は『名古屋市史』、『名古屋史要』、『新修名古屋市史』) 宮 (熱田) 元禄12年1699年)の人口1万3999人は、熱田町8734人、三ヶ浦3762人、社人1101人、社人支配町人402人の合計その後熱田人口は、三ヶ浦や神宮支配人口加算されていないと思われる明治4年1871年)の人口医師僧尼祢宜27人を含む。 元号西暦町方人口元禄12年 (総数) 1699年 13,999 享保6年 1721年 7,892 享保11年 1726年 7,858 天保11年 1840年 11,957 天保14年 1843年 10,342 明治4年 1871年 12,864 明治6年 (総数) 1873年 15,211 (典拠は『新修名古屋市史』、『東海道宿村大概帳』) 犬山 元号西暦町方人口文化元年 1804年 1,971 天保13年1842年頃 3,480 明治6年 (総数) 1873年 6,159 (典拠は『犬山市史』、『犬山市資料』) 一宮 元号西暦町方人口万治2年 1659年 2,935 安政4年 1857年 5,727 安政5年 1858年 5,777 明治4年 (総数) 1871年 6,846 明治6年 (総数) 1873年 7,399 (典拠は『一宮市史』) 津島 元号西暦在方人口(津島五ヶ) 寛文年中 1665年頃 5,539 寛政文政年中 1800年頃 5,722 天保年中 1843年頃 7,468 明治6年 (総数) 1873年 7,387 (典拠は『津島町史』) 三河 大浜 元号西暦在方人口貞亭元年 1684年 2,306 正徳元年 1711年 3,603 延享3年 1746年 4,570 宝暦10年 1760年 5,047 宝暦11年 1761年 5,011 明和5年 1768年 5,656 明和7年 1770年 5,554 天保12年 1841年 7,463 明治6年 (総数) 1873年 8,885 (典拠は『碧南市史』) 棚尾 元号西暦在方人口寛保2年 1742年 907 弘化3年 1846年 4,993 嘉永5年 1852年 5,197 文久3年 1863年 5,632 慶応2年 1866年 5,744 (典拠は『碧南市史』) 岡崎 元号西暦町方人口享和元年 1801年 6,137 天保4年 1833年 6,566 天保14年 1843年 6,494 明治6年 (総数) 1873年 12,969 (典拠は『岡崎市史』、『東海道宿村大概帳』) 挙母 (豊田) 町方戸数延宝年中(1675年頃)に442戸、寛延2年1749年)は616戸(典拠は『豊田市史』)。明治6年1873年)の人口は3352人。 西尾 元号西暦町方人口延享2年 1745年 2,870 安永5年 1776年 3,033 文政6年 1822年 2,825 弘化3年 1846年 3,002 明治6年 (総数) 1873年 7,095 (典拠は『西尾町史』) 吉田 (豊橋) 元号西暦町方人口正徳2年 1712年 7,219 寛延3年 1750年 5,530 享和2年 1802年 4,897 天保14年 1843年 5,277 明治6年 (総数) 1873年 7,506 (典拠は『豊橋市史』) 遠江 浜松 元号西暦合計人口元禄16年 1703年 4,336 天保14年 1843年 5,964 明治6年 (総数) 1873年 11,103 (典拠は『浜松市史』) 横須賀 (遠江横須賀) 寛文年中(1670年頃)の町方人口は2959人(典拠は『横須賀町史』)。明治6年1873年)の人口は5516人。 駿河 府中 (駿府, 静岡) 徳川家康在城当時は10万人と伝えられているが、城主居ない時代人口約2万人地方都市となった慶応4年1868年)に徳川家達静岡藩(同年駿府静岡改名)に封じられると、幕臣移住とともに人口増加した元号西暦町方人口元禄5年 1692年 17,067 正徳5年 1715年 15,527 享保7年 1722年 17,090 宝暦12年 1762年 16,163 天保14年 1843年 14,071 嘉永3年 1850年 15,724 明治6年 (総数) 1873年 31,555 (典拠は『静岡市史』、『東海道駿府城下町』、『東海道宿村大概帳』) 甲斐 甲府 明治5年人口士族684人、卒族515人、僧尼208人、神官46人、平民1万4173人を含む。 元号西暦町方合計下府中(23町) 上府中(26町) 寛文10年 1670年 12,772 10,442 2,352 元禄2年 1689年 14,334 元禄10年 1697年 13,539 11,005 2,534 宝永2年 1705年 12,699 10,348 2,351 宝永7年 1710年 13,306 享保9年 1724年 9,290 文化3年 1806年 9,566 7,304 2,262 元治元年 1864年 11,071 9,153 1,918 明治5年 (総数) 1872年 15,626 11,789 3,837 明治6年 (総数) 1873年 15,529 (典拠は『甲府略志』) 伊豆 三島 元号西暦町方人口延宝8年 1680年 3,814 貞享5年 1688年 4,370 宝暦9年 1759年 4,228 文化8年 1811年 4,232 文化9年 1812年 4,320 天保14年 1843年 4,048 慶応3年 1867年 4,514 明治6年 (総数) 1873年 4,813 (典拠は『三島市誌』) 相模 小田原 元号西暦町方合計家持店借元禄16年 1703年 9,922 寛保3年 1743年 7,355 5,333 2,022 享和3年 1803年 5,573 天保14年 1843年 5,404 安政6年 1859年 5,898 明治5年 1872年 7,687 明治6年 (総数) 1873年 12,710 (典拠は『小田原市史』、『神奈川県史』、内田哲夫小田原藩研究』) 浦賀三崎 享保年中(1725年頃)の西浦賀は600軒余、東浦賀は390軒余、三崎町は580軒余。慶応4年1868年)の西浦家数は897軒(寺院4ヶ寺、庵2軒、堂2軒、役人8軒を含む)、東浦家数551軒(寺院8ヶ寺、役人6軒を含む)。明治6年1873年)の三崎人口は3417人。 元号西暦総人口西浦東浦合計町方僧尼奉公人嘉永4年 1851年 4,185 3,762 423 嘉永5年 1852年 4,285 3,864 421 安政元年 1854年 3,585 3,180 405 安政2年 1855年 3,715 3,314 401 安政3年 1856年 3,697 3,321 376 安政4年 1857年 3,821 3,422 399 安政5年 1858年 3,853 3,460 393 安政6年 1859年 3,778 3,386 392 安政7年 1860年 3,696 3,324 372 文久元年 1861年 3,822 3,448 374 明治元年 1868年 3,838 3,576 262 明治2年 1869年 4,824 4,463 361 明治3年 1870年 6,922 4,638 2,284 明治6年 1873年 6,490 4,110 2,380 (典拠は『新横須賀市史』) 武蔵 江戸 江戸の人口の項を参照。 忍 (行田) 享保6年1721年)の忍の町方人口は3049人(典拠は『行田市史』)。明治6年1873年)の成田町行田町人口合算して7224人。 岩槻 元号西暦町方人口宝永6年 1709年 4,186 延享3年 1746年 3,687 安永3年 1774年 3,666 天保14年 1843年 3,378 弘化4年 1847年 3,676 明治6年 (総数) 1873年 5,077 (典拠は『岩槻市史』、『日光御成道宿村大概帳』) 品川 元号西暦町方合計南品川宿漁師町北品川宿歩行新宿享和2年 1802年 6,120 文政11年 1828年 6,290 2,005 525 1,996 1,764 天保14年 1843年 6,890 2,176 469 2,650 1,595 慶応2年 1866年 7,554 2,293 655 2,513 2,093 明治6年 (総数) 1873年 10,293 (典拠は『品川区史』) 川越 明治2年1869年)の川越在中家中人口は3885人。 元号西暦町方合計川越十ヵ町郷分町元禄11年 1698年 5,946 2,824 3,122 慶応3年 1867年 4,486 明治6年 (総数) 1873年 9,357 (典拠は『川越市史』) 熊谷 元号西暦町方人口寛文12年 1800年 3,276 天保13年 1842年 3,193 天保14年 1843年 3,263 明治2年 (総数) 1869年 5,552 明治4年 (総数) 1871年 4,477 明治6年 (総数) 1873年 4,171 (典拠は『熊谷市史』、『中山道宿村大概帳』) 八王子 元号西暦合計横山八日市八王子十三組元禄15年 1702年 3,448 1,377 2,071 正徳5年 1715年 3,880 享保5年 1720年 3,849 1,417 2,432 元文5年 1740年 1,512 寛保3年 1743年 2,587 延享4年 1747年 2,576 宝暦6年 1756年 3,954 1,408 2,546 宝暦12年 1762年 3,872 天保8年 1837年 5,457 2,323 3,134 天保14年 1843年 6,026 嘉永5年 1852年 6,376 3,037 3,339 文久2年 1862年 7,506 3,045 4,461 明治6年 (総数) 1873年 7,675 (典拠は『八王子市史』、光石知恵子 『江戸時代八王子人口』) 神奈川 元号西暦町方人口享保年中 1725年頃 4,817 天保14年 1843年 5,793 慶応3年 1867年 4,279 明治3年 (総数) 1870年 4,631 明治5年 (総数) 1872年 8,891 明治6年 (総数) 1873年 10,660 (典拠は『横浜市史』) 横浜 文禄4年1595年)の戸数13戸、天保11年1840年)の戸数88戸で推定人口450人(典拠は『横浜市史』)。神奈川代替として安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港してから急速に発達し明治6年1873年)の人口は64602人。 安房 真倉 (館山) 館山三町、四ヶ浦、四村から成る元号西暦真倉村合館山三町四ヶ浦四村享保9年 1724年 1,759 847 912 寛政5年 1793年 2,211 670 820 721 天保9年 1838年 3,015 845 1,365 805 明治6年 1873年 2,588 (典拠は『千葉県史料』) 上総 大多喜 ロドリゴ・デ・ビベロの手記によると1609年頃の大多喜人口1万2000人。享保年中(1725年頃)の大多喜城下七カ町の町屋屋敷は、柳原町除いて335軒。寛政5年1793年)の町屋屋敷442軒(典拠は『大多喜町史』)。明治6年1873年)の大多喜駅人口2882人(『共武政表』)。 下総 古河 元号西暦町方人口宝暦8年 1758年 5,583 宝暦13年 1763年 5,121 天保14年 1843年 3,865 明治6年 (総数) 1873年 9,343 (典拠は『古河市史』、『日光道中宿村大概帳』) 船橋 元西暦合計九日市五日市町海神寛政5年 1793年 2,120 寛政12年 1800年 5,074 2,381 1,765 928 明治6年 (総数) 1873年 9,494 (典拠は『船橋町誌』) 結城 元号西暦町方人口元禄7年 1694年 4,878 元禄13年 1703年 4,485 宝暦元年 1751年 4,518 宝暦2年 1752年 4,532 宝暦3年 1753年 4,662 宝暦4年 1754年 4,787 宝暦5年 1755年 4,807 宝暦6年 1756年 4,856 宝暦7年 1757年 4,859 宝暦8年 1758年 4,805 宝暦9年 1759年 4,751 宝暦10年 1760年 4,766 宝暦11年 1761年 4,812 宝暦12年 1762年 4,807 宝暦13年 1763年 4,776 明和元年 1764年 4,771 明和2年 1765年 4,814 明和3年 1766年 4,843 明和4年 1767年 4,913 明和5年 1768年 4,796 明和6年 1769年 4,858 明和7年 1770年 4,883 明和8年 1771年 4,905 安永元年 1772年 4,968 安永2年 1773年 4,807 安永3年 1774年 4,770 安永4年 1775年 4,803 安永5年 1776年 4,829 安永6年 1777年 4,784 安永7年 1778年 4,792 安永8年 1779年 4,774 安永9年 1780年 4,760 天明元年 1781年 4,735 天明2年 1782年 4,657 文政6年 1823年 3,247 文政7年 1824年 3,290 天保13年 1842年 3,715 明治6年 (総数) 1873年 5,654 (典拠は『結城市史』) 佐倉 家中人口は安永8年1779年)に426人、文久3年1863年)に860人。 元号西暦町方人口寛延4年 1751年 3,046 宝暦5年 1755年 3,111 元治元年 1864年 3,521 明治6年 (総数) 1873年 6,681 (典拠は『佐倉市史』) 飯沼 (本銚子) 明治6年1873年)の人口飯沼(後の本銚子町)と新生荒野今宮の3(後の銚子町)を含む。 元号西暦在方人口享保5年 1720年 5,849 延享4年 1747年 6,291 宝暦2年 1752年 7,409 宝暦5年 1755年 7,193 明治6年 (総数) 1873年 17,688 (典拠は『銚子市史』) 常陸 土浦 元号西暦町方人口享保6年 1721年 2,286 元文5年 1740年 2,401 天明6年 1786年 3,988 天保10年 1839年 5,098 天保14年 1843年 4,765 明治元年 1868年 5,759 明治6年 (総数) 1873年 7,788 (典拠は『土浦市史』) 水戸 延宝8年1680年)の町屋戸数は1777戸、武家戸数は1499戸。 元号西暦町方人口元禄15年 1702年 12,964 享保11年 1726年 10,991 明和5年 1768年 8,385 天明3年 1783年 7,834 寛政6年 1794年 7,364 寛政10年 1798年 7,200 明治6年 (総数) 1873年 19,010 (典拠は『水戸市史』) 那珂湊 (ひたちなか) 元号西暦湊村町方元禄10年 1697年 6,120 正徳3年 1713年 6,931 享保4年 1719年 6,309 宝暦13年 1763年 5,339 明和6年 1769年 4,833 安永3年 1774年 4,817 寛政2年 1790年 4,456 寛政9年 1797年 3,934 享和2年 1802年 4,030 文政年中 1825年頃 4,030 文政10年 1827年 4,559 文政12年 1829年 4,400 天保9年 1838年 4,694 安政元年 1854年 5,734 明治6年 (総数) 1873年 8,254 (典拠は『那珂湊市史』)

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東海道

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汲沢」の記事における「東海道」の解説

戸塚区史』によると、小田原北条氏滅亡翌年である天正19年1591年)、徳川家康相模武蔵各地検地を行うとともに箱根以東において単位軍勢移動耐える道路の建設直ちに取掛かったという。汲沢旧家である森家系図内の三代義秀の項に「天正一九村境被仰付。谷切、峰切、道切、川切の四通御触。」との書き込みがあるが、『戸塚区史』はこれを、保土ヶ谷権太坂から藤沢遊行寺付近までの区間で、同家普請により「空前の大土事業この地において行われたことを、簡潔な表現のうちに雄弁に物語っている。」と読み解いている。汲沢地区に関しては、地図作者遠近道印藤井半知)および絵師菱川師宣によって元禄3年1690年)に作成された『東海道分間絵図の中で、東海道が戸塚西方丘陵を通る部分に「切どをし」との説明付されており、戸塚警察署付近人工的な地形であることが理解される。 この付近の坂、すなわち大坂と現在よばれる坂は近世までふたつに分かれており、戸塚宿側を一番坂尾根に近い方を二番坂と称した。『新編相模国風土記稿』の戸塚宿の項には「坂二 海道中南にあり、一番坂一町二番坂登三十間余と唄ふ、(後略)」とある。このうち二番坂は、現在の汲沢町戸塚町との境界一部形成している。この二つの坂については、鎌倉武士の生きざま描いた謡曲鉢の木』を下敷きとして江戸期詠まれ川柳佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」が残されている 。二番坂は嘉永6年1853年)、川越藩家臣須藤家三兄弟が、父須藤右衛門の仇であった宇土藩家臣原護に対する仇討ち果たという事件の舞台となる。 天保4年1833年)、平亭銀鶏の撰、谷文晁ほかの絵により、江の島付近と、日本橋から江の島までの東海道宿場町名所旧跡についての挿絵入り案内書江の島まうで 浜のさゞ波』が公刊された。それぞれの挿絵には漢詩等の詩句添えられているが、戸塚に関しては、馬に乗り右から左へ坂道上る人物描いた真による挿絵があり、その中に、宿場泊まった後の行程であるこを示す表現を含む以下の詩句掲載されている。 大家長短浮世往来江山為宝(印) 乾坤旅舎 日月車輪 (印) 乗掛の 夢ハあふなし 雉子の声 舎扇 夜聴渓上 暁看渓下山 基彦(?)(印) 路出林間始晴 遠山多少入眼行 々来光意老竒處 何管後人里程 裾張老人(印) 二番坂をさらに登った所は、女殺し、あるいは女コロビ坂と呼ばれた狂歌師太田南畝による享和元年1801年)の紀行文改元紀行巻之上』には、戸塚藤沢間の様子を語る中で下のような記述見える。「一番坂二番坂といふを超えつゝゆけばあり。此のあたり松露多しといふ。白この台といへる所を俗に女殺しといふ。一とせ旅人の女を殺せる処なりと輿かくものゝいふに、あたりを見れば人家なし。物すごき事いはんかたなし。 」 いっぽう文化3年1806年)、江戸幕府命のもと完成した『東海道分間絵図』には二番坂より藤沢の字名として、「字シラ土」「字女コロビ坂」との記載がある。そのほか小栗判官伝説にゆかりのある藤沢市西俣野花應院伝わる『実説小栗判官一代記』は、作者成立年代ともに不明とされるが、「江戸」、「横浜」との地名とともに七五調基本としつつ以下のように物語る。「品川越して大森鶴見神奈川後にして、行くは横浜その次は保土ヶ谷越して戸塚宿大坂登り二番女殺し早や過ぎて藤沢宿へと着きぬれば(後略)」。二番坂と女殺しという地名また、昭和52年1972年)に藤沢市亀井野採集されたダイノボッチャという人物に関する民話中にも登場する天保6年1835年3月軒、竹渓、錦号する江戸武士4名が江の島鎌倉金沢八景訪れた時の模様を、つづった紀行文『四親』は、当地風景美しさ詠んだ和歌4首、漢詩1首を伝える。「一番坂二番坂を過て、左の谷間下郷村岡本の里、玉縄のさと城跡見ゆる、花処ところに交りて、煙立てゝけしきよしとたはこなとくゆらす、 きゝすたつ谷の戸遠くはれてさくらにうつむ岡もとのさと うちかすむ遠近山をよそにしてわれみよかしの谷陰のはな 竹渓 こりのこす花にいこへる山賤山路にかよふしるへなるらむ 楳軒 煙‐霞シテ 若シレ紙ノ 岳画テ 模‐糊マツコ) 就レ中吟客悩ム 峯時二 有無 同 谷をみこしに鎌倉山みゆる、右りに士峯ほのかに俤を外にもらす、 名に高き富士八重たつかすみにもつゝむにあまる影をもらして 慶長9年1604年)、徳川秀忠によってはじめられた一里塚築造事業が、東海道では慶長16年1611年)に完成したを機に街道両側マツスギエノキツガなどが植えられ並木として整備された。『明治三年庚午十一月汲沢村明細帳』の「東海道並木」の項目には「松木弐百参拾弐本 目通壱丈三尺より壱丈迄 外ニ苗木四本 雑木四本 目通弐尺より壱尺」との記載がある。また明治9年1876年)の「汲沢深谷村原宿村地付東海道並木間遠の場苗木足場所無御座候につき申上」と題された神奈川県宛て書状も残る。 尾根登った所から始ま並木長らく名所知られ、『新編相模国風土記稿収録の川永寿川村華陽)による「湘中記行」には次の記述見える。「路上高陵左右老杉駢植為レ列、遥望レ之、即如二三軍之衆、行伍整斉一也」。嘉永年間歌川広重によって制作され浮世絵東海道五十三次』の「戸塚」の中には汲沢村越しにみた富士山とともに当時の様子描かれているほか、同作者による『東海道五十三対』の「戸塚」では、大きな人物画とともに描かれ当地風景へ、戸塚町富塚八幡宮境内句碑のある松尾芭蕉の句「鎌倉生きて出でけむ 初松魚」を下敷きにした鎌倉を 出るに つれたちて やぼないなかに なく郭公」との狂歌添えられている。時代下って明治8年1875年)の三代目歌川広重による浮世絵東海名所改正道中記』には乗馬姿の外国人とともに当地風景登場する20世紀初頭に日本各地訪れたアメリカ人類学者フレデリック・スタールは、大坂周辺について次のように書き記している。"We have climbed on foot up a great hill in two ascents, too heavy for our kurumaya to drag us up. The pines here are especially fine." 明治初期人力車横浜から鎌倉訪れたフランス人実業家エミール・ギメは、東海道経由での帰路戸塚到着する様子を記す中で並木や坂について次のように描写している。"Les grands arbres se tordent aux bords de la route dans des attitudes étranges.Parfois, si le chemin monte, nous allons à pied. Mais dès que nous sommes à la descente nos hommes repartent avec une vitesse vertigineuse. C'est ainsi que nous arrivons à Totska, qui est une longue rue de trois kilomètres." 慶応2年1867年)に日本滞在したフランス人旅行家ルドヴィク・ド・ボーヴォワールは、横浜から東海道を馬に乗って下り藤沢到着するまでの過程記述する中で、以下のような描写残している。"Pour nous, nous continuons notre route vers l'ouest, suivant ce magnifique Tokâïdo qui devient peu à peu fort sauvage.(......), succédèrent des points de vue superbes : nous suivions presque sous un berceau de cèdres séculaires une suite de collines qui devinrent bientôt des montagnes et un horizon de verdure se déroulait devant nous avec des précipices et des cascades, des forêts vierges et des rizières, des temples antiques en silhouette, de grandes roches rougeâtres couronnées de verdure, et la ligne lointaine d'une mer azurée." 大正期道路拡張に伴い並木伐採検討されていることを知った芥川龍之介は、「憎みても猶憎むべきならずや」と評した一方昭和に入ってからでは鏑木清方が「戸塚藤沢間の松並木道は去年越したことがあるこれから行程どんなに良い松並木見出すかもしれないが、戸塚並木は一といって二と下らぬものだろう。」と記したことにちなみ、特定の松の木を「清方の」として名付けていたとの旨を久保田万太郎新聞寄稿している。地元青年団地区誇りとらえていたこともあり関東大震災後道路拡張工事では、上下線分離するダブルウェイが日本で初め採用され並木残されることとなったが、現在では痕跡的に残るのみである 。 天保4年1833年)に歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』挿入される形で初演され清元による所作事道行旅路の花聟』では、主人公勘平お軽戸塚山中差し掛かるという場面設定下で、「墨絵の筆に夜の富士」との一節の後、「幸いここのかげで 暫しがうちの足休め」との台詞語られる。この場面はまた、三代目歌川豊国による安政6年1859年出版浮世絵にも表現されている。西横浜国際病院前バス停近くにはこの舞台作品記念する昭和46年1971年建立石碑があり、碑文中に舞台華やかな思い出多くの人脳裡深くきざみこんでいるお軽・勘平道行戯曲上の設定であれ史実にまがうほど戸塚地名とは離れぬ仲」と記されている。 大坂登り切った地点から東海道に沿った地域は字吹上呼ばれるが、『地名の語源』は「フキアゲ」の項の2に「卓越風をうけやすい地形にある所」との説明加えている。東日本太平洋岸冬季に吹く北西季節風のことを一般にナライと呼ぶが、『神奈川県方言辞典』は、現在の汲沢深谷原宿小雀俣野東俣野、影取に相当する鎌倉郡大正村採集され語形として「ナレー」を挙げている。

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東海道

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郡寺」の記事における「東海道」の解説

伊賀国 郡名寺的として、阿拝郡三田廃寺伊賀郡が財良寺跡名張郡夏見廃寺山田郡鳳凰寺廃寺があるという。 伊勢国 (飛鳥白鳳寺院数:約20カ所)、吉備池廃寺似た額田廃寺(桑名郡員弁郡の境)が最古の可能性が高い郡名比定郡衙比定寺院根拠備考桑名郡 天王平遺跡? 北小山南小山廃寺が隣接 多度神宮寺 員弁郡 山田遺跡員弁廃寺近接 三重郡 西ヶ広遺跡? 周辺縄生廃寺朝日町歴史博物館展示朝明郡 久留倍官衙遺跡(国史跡) 河曲郡 狐塚遺跡 大鹿廃寺南浦廃寺鈴鹿郡 八野遺跡? 奄芸郡 郡山遺跡安濃郡 浄土寺遺跡? 多気郡 神郡、逢鹿瀬廃寺伊勢神宮神宮寺?) 度会郡 神郡寺院跡なし 尾張国最古は、後に国分寺転用された尾張元興寺で、瓦(重圏文縁素弁蓮華文)は、飛騨・寿楽廃寺信濃明科廃寺にもみられる郡名比定郡衙比定寺院根拠備考葉栗郡 尼寺(黒岩廃寺?) 『塵袋』第5 春部郡 勝川遺跡? 廃寺隣接 山田郡 志賀公園遺跡? 愛知郡 正木遺跡? 周辺尾張元興寺 尾張氏が有力 海部郡 大渕遺跡中島郡 尾張国分寺含め9廃寺 三河国 (奈良時代以前の古瓦出土は、最古の北野廃寺跡(青見評→碧海郡)を含め約4カ所) 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考渥美郡 存在推定 市道遺跡 遠江国 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考敷智郡 城山伊場遺跡 存在推定 磐田郡 磐田寺(寺谷廃寺?) 『日本霊異記』中巻31 長田永田遺跡木船廃寺 709年長上郡長下郡に分離 駿河国 静岡市埋蔵文化財センター展示によると静岡県内最古尾羽廃寺跡である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考益頭郡遺跡 存在推定 志太郡 御子ヶ谷遺跡 存在推定 富士郡 東平遺跡? 三日市廃寺? 庵原郡 尾羽周辺 尾羽廃寺 廬原君が有力 安倍郡 川合遺跡? 有渡郡 ケイセイ遺跡? 甲斐国 他に天狗沢瓦窯跡甲斐市巨麻郡)の周辺古代寺院存在推定されている。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考山梨郡 国府遺跡 寺本廃寺 相模国 「古瓦散布地も寺院を示すものと見做すならば、各郡に1寺か2寺が存在したことになる。」との指摘がある。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考鎌倉郡 今小路西遺跡 千葉遺跡 足下郡 下曽我遺跡 千代廃寺 高座郡 下寺尾官衙遺跡郡(国史跡下寺尾廃寺 相模国分寺尼寺 大住郡 四之宮下郷廃寺 御浦郡 宗元寺と深田廃寺 上総国21廃寺あり、川原寺軒瓦の上総大廃寺最古である。光善寺廃寺市原郡郡名寺院比定る説がある。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考海上郡 西野遺跡 今富廃寺 武射郡 嶋戸東遺跡 武射寺(真行寺廃寺) 墨書土器「武射寺」 望陀郡 祇園・長須賀古墳群 上総大寺廃寺 畔蒜郡 丹過遺跡? 唯一真里谷廃寺 周准郡 外箕輪遺跡? 九十九廃寺近接 夷隅郡 唯一岩熊廃寺 山辺郡 大椎廃寺小食廃寺み 下総国17廃寺すべてが法起寺伽藍で、最古龍角寺廃寺である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考葛飾郡 国府に一体(井上駅も) 下総国分寺尼寺流山廃寺 埴生郡 大畑I 龍角寺 印波国造が有力 匝瑳郡 八日市場大寺廃寺 結城郡 峯崎遺跡 結城廃寺 墨書土器大寺相馬郡 郡衙正倉日秀西遺跡 印旛郡 高岡遺跡群? 長熊廃寺(千葉県史跡)? 海上郡 内野遺跡? 木内廃寺近接 千葉郡 大北遺跡? 千葉寺廃寺近接 相馬郡 唯一船戸廃寺 香取郡 龍正院廃寺名木廃寺 常陸国 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考新治郡 古郡遺跡 新治廃寺(国史跡) ヘラ書き文字瓦「新治寺筑波郡 平沢官衙遺跡 中台廃寺 久慈郡 長者屋敷遺跡 久(慈)寺 墨書土器「久寺」 那珂郡 台渡里官衙遺跡 台渡里廃寺(仲寺) 墨書土器「仲寺」 河内郡 金田官衙遺跡 九重東岡廃寺 茨城郡 茨城廃寺跡 墨書土器茨木寺」「寺」 鹿島郡 神野遺跡 鹿島神宮寺信太郡 稲敷市君山? 下君山廃寺? 白壁郡(真壁郡下谷廃寺 多珂郡 大津廃寺

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東海道

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桶狭間の交通」の記事における「東海道」の解説

大字桶狭間旧東海道(現愛知県道222号緑瑞穂線)は通っていない。ただし、大字桶狭間南北に貫く街道、すなわち「長坂道」、「分レ道」、「近崎道」の北端は、すべてが国1号の北に併走する旧東海道にある。「長坂道」は大字有松西端ほど近い地点に、「分レ道」は大字有松中ほど地点、「近崎道」は大字有松東端ほど近い地点に、それぞれたどり着く名古屋鉄道名古屋本線有松駅改札口出て正面側の出入口降りると、踏切愛知県道237号新田名古屋線交差する南西側に至る(位置)。ここは大字有松であり、名古屋市による「有松土地区画整理事業」(1990年平成2年)-2014年平成26年))によって景観変化著し一帯である。県道新田名古屋線緩やかな坂を上ってそのまま国道1号長坂交差点でつながるが、名鉄名古屋本線をまたぐ幅員20メートル主要な幹線として交通量も多い現在の様相とは異なりかつては天王坂と呼ばれた田面道(たもどう、ともどう、農道の意)がこの付近南進して大字桶狭間方面向かっている。一方踏切から南西80メートルほど進むと左右に分岐する細い道があるが、これが往時は「往還」と尊称された旧東海道である。踏切南に越えた県道新田名古屋線実際にはこの辻が終点であり、以降長坂交差点までは有松線第1号呼ばれる名古屋市であって2003年平成15年10月車道部の共用開始されるまでは存在しなかった道である。 有松町並み2012年平成24年8月撮影位置))愛知県道222号旧東海道)のうち有松市街地においては平成20年より順次電線共同溝工事が行われ、無電柱景観作られつつある。 有松駅イオンタウン有松2012年平成24年10月撮影位置))

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