さつま‐の‐くに【薩摩国】
読み方:さつまのくに
⇒薩摩
薩摩国
薩摩国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/14 02:17 UTC 版)
| 薩摩国 | |
|---|---|
| ■-薩摩国 ■-西海道 |
|
| 別称 | 薩州(さっしゅう) |
| 所属 | 西海道 |
| 相当領域 | 鹿児島県西部 |
| 諸元 | |
| 国力 | 中国 |
| 距離 | 遠国 |
| 郡・郷数 | 13郡35郷 |
| 国内主要施設 | |
| 薩摩国府 | 鹿児島県薩摩川内市 |
| 薩摩国分寺 | 鹿児島県薩摩川内市(薩摩国分寺跡) |
| 薩摩国分尼寺 | (推定)鹿児島県薩摩川内市 |
| 一宮 | 新田神社(鹿児島県薩摩川内市) 枚聞神社(鹿児島県指宿市) |
薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。律令制成立当初は西海道の日向国に属していたが、後に分立[1][2]。
薩摩国は現在の鹿児島県本土の西部にあたる。ただし、旧国名としての薩摩国と気象庁の区分等での薩摩地域では範囲が異なる[3]。
地域
薩摩国と大隅国の境界は南は白銀坂(鹿児島市と姶良市の境界)、北は霧島市横川町の高木地区付近にあった[3]。鹿児島県は旧国名では薩摩国と大隅国に相当するが、鹿児島県の現行の行政上の地域区分では大隅地域、南薩地域、北薩地域など7つに区分している[3]。
なお、薩摩国の範囲は半島振興法に基づく半島振興計画でいう薩摩半島の市町村の範囲とも異なる[3]。このほか気象庁の警報・注意報等の発表区域の一次細分区域となっている「薩摩地域」とも一致しない(大隅国に含まれていた霧島市などは気象庁の区分では薩摩地域となっている)[3]。
領域
明治維新直前の領域は、現在の鹿児島県の下記の区域に相当する。現住人口の過半数が鹿児島市に集中している。
- 出水郡長島町
- 阿久根市
- 出水市
- 伊佐市の北部(大口青木・大口原田・大口金波田・大口堂崎・大口下殿・大口宮人以北[注釈 1])
- 薩摩郡さつま町
- 薩摩川内市
- いちき串木野市
- 日置市
- 鹿児島市の大部分(桜島を除く[注釈 2])
- 指宿市
- 南九州市
- 枕崎市
- 南さつま市
- 鹿児島郡三島村・十島村[注釈 3]
なお、現在の出水郡長島町(長島・伊唐島・諸浦島・獅子島)は室町時代後期まで肥後国天草郡に属していたが、1565年(永禄8年)から1581年(天正9年)にかけて島津氏から幾度かの侵攻を受けて勢力下となり、薩摩国出水郡の所属となった。
郡
高城郡には薩摩国府が置かれ、その北の出水郡とともに肥後国から計画的に植民が進められ、隼人に対する中央政府の最前線となっていた。養老4年(720年)の大隅国での隼人の反乱に際しては、これら2郡が補給基地となった。天平8年(735年)の『薩摩国正税帳』では「出水・高城のほかに隼人十一郡」とされ、下記の14郡のうち伊佐郡を除いた13郡があり、前2郡の他は隼人が治めていたことが分かる。その約200年後の10世紀の『和名抄』によると、薩摩国は13郡・35郷から構成されていた。なお、近世初頭に伊佐郡が成立し、薩摩国は14郡となった。
江戸時代の藩
沿革
「サツマ」の語源は東国も参照。
『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える[4]。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった[5]。この中で、アマテラスの孫のニニギが高千穂に降臨し(天孫降臨)、子のホオリが兄・ホデリを懲らしめた旨とともに兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、ホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、その由来には諸説がある。特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される[5]。隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている[5]。そして天皇家による南九州における統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている[6]。
5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直としたとされる(『国造本紀』)。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した[7]。
大宝2年(702年)8月1日に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に[8]、現在の鹿児島県本土の西部が分立したのが、薩摩国の始まりである[7]。(日向国から分離して設置される以前は、この地域は阿多(吾田) と呼ばれていた。)
『続日本紀』巻二大宝二年十月丁酉(三日)条に、「是より先、薩摩隼人を征せし時、大宰所部の神九処に祷祈し、実に神威に頼みて遂に荒賊を平ぐ。爰に幣帛を奉り以て其の祷に賽す。唱更国司等〈今の薩摩国なり〉言す「国内要害の地に於いて、柵を建て戍を置きて守らん」と。許す」とある。
国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた[9]。8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。例えば頴娃郡の前身である衣評があり、『続日本紀』巻一文武天皇4年(700年)六月庚辰(三日)条に「(前略)衣評督の衣君県、助督の衣君弖自美、また肝衝難波、肥人らに従い兵を持ち、覓国使の刑部真木等を剽劫す。是に於いて竺志惣領に勅して、犯に准えて决罸す」とみえる。
近世以降の沿革
国内の施設
国府
国府は、『和名抄』、『色葉字類抄』、『拾芥抄』、易林本の『節用集』、いずれも記載がない。
現在の薩摩川内市の大園、石走島の近辺と推定される。初期の調査は、国府の域内にある川内高校の平田信芳教諭と郷土史研究クラブの生徒によってなされ、1964年(昭和39年)にこの高校が関連遺跡を発見した。国衙の遺跡はまだ見つかっていない。
国分寺・国分尼寺
神社
- 総社 不詳 - 新田神社境外末社の九楼守公神社とする説がある。
- 一宮 新田神社 (薩摩川内市) - 式外社。国府の近くにあった。
- 元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。
二宮は不詳であるが、加紫久利神社が二宮とされることがある。三宮以下は存在しない。
安国寺利生塔
- 安国寺跡 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
- 安國寺 - 鹿児島県薩摩川内市中郷町。
人物
国司
守護
鎌倉幕府
室町幕府
戦国大名
薩摩国の合戦
| 年 | 合戦 | 交戦勢力 |
|---|---|---|
| 養老4〜5年 (720–21) | 隼人の反乱 | ハヤト族 vs. ヤマト王権 |
| 長徳3年 (997) | 長徳の入寇 | 南蛮人(高麗国人?奄美島人?) vs. 九州全域の沿岸住民 |
| 応永20年 (1413) | 伊集院頼久の乱 | 島津久豊 vs. 伊集院頼久 |
| 天正15年 (1587) | 平佐城の戦い | 島津氏 vs. 豊臣政権 |
| 文久3年 (1863) | 薩英戦争 | 薩摩藩 vs. イギリス |
| 明治10年 (1877) | 西南戦争 | 不平士族 vs. 明治政府 |
脚注
注釈
脚注
- ↑ 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
- ↑ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」
- 1 2 3 4 5 “郷土史への扉”. 霧島市. 2026年4月30日閲覧。
- ↑ 『古事記』神代記。
- 1 2 3 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 27。
- ↑ 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)p. 28。
- 1 2 『続日本紀』巻第2、大宝2年8月丙申(1日)条、10月丁酉(3日)条。新日本古典文学大系『続日本紀』一の58-61頁。
- ↑ 『続日本紀』巻二 大寶二年八月丙申条。「薩摩多褹。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉」。
- ↑ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
参考文献
関連項目
薩摩国
- 薩摩国のページへのリンク