川端康成とは?

かわばた‐やすなり〔かはばた‐〕【川端康成】


川端康成

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川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年)6月14日 - 1972年昭和47年)4月16日)は、日本小説家文芸評論家大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。1968年ノーベル文学賞受賞。




注釈

  1. ^ ゲーテ・メダル(Goethe-Medaille/Goethe-Plakette)は様々な団体のものがある。川端に贈られたのは「フランクフルト・アム・マイン市のゲーテ・メダルドイツ語版」。また「Plakette」とは、メダルというよりは小さなバッジである。
  2. ^ この「保身」という文字は川端の生活信条となり、日記の随所に出てくる[16][18]
  3. ^ 小笠原義人の実家は京都府京都市下京区上嵯峨村(現・右京区嵯峨野)で、一家は大本教信者であった[25][67]。小笠原義人は1900年(明治33年)11月11日生れ。五男三女の3番目で長男。祖父・弥太郎義信は紀伊藩士(高天神小笠原家[68])。大祖は清和源氏源義家の弟・新羅三郎義光で、小笠原家の鼻祖は、長清であるという[65]。義人の父・義之は紀伊藩士・森儀三郎の二男で、義信の養子。母・ヒサは加賀藩士・御納戸役の飯森薫の長女である[65]
  4. ^ この「師の柩を肩に」は、のち1927年(昭和2年)に、「学窓ロマンス 倉木先生の葬式」と改題し、『キング』3月号に再掲載された[18][73]
  5. ^ 川端は親戚の川端松太郎に、10月31日付で修善寺温泉、11月2日付で湯ヶ野温泉など旅先から絵葉書を送っている[18][49][80][81]
  6. ^ 川端は、中学の入学試験の体格検査や、病院で右眼の視力がよくないことに驚いていたが[85]、眼底に結核の病痕があることを40歳頃に医者から教えられた[25][32]
  7. ^ その後も川端は、今東光の家に度々招かれて、霊談義を聞くことがあったようで、〈テレパシイの話〉〈霊知学の話〉を、〈面白き話と思ふ〉と日記に記している[90]
  8. ^ この『ちよ』に関連する作品『処女作の祟り』では、処女作『ちよ』を書いたために、登場人物の故郷の村の男〈千代松〉が祟られ、〈ちよ〉という名前の女性に〈僕〉が失恋する話が描かれている[94]。この〈千代松〉の怪談挿話は架空であると川端は言っているが、実在人物かは明確ではない[18]
  9. ^ 平出修の妻の甥・平出実の元妻であったマダム・山田ます(1887年生まれ)は、帝大生の福田澄夫と男女関係となり、福田が台湾銀行に入社するのに同行して行った[17][98]
  10. ^ 伊藤初代の父親・伊藤忠吉は農家の長男だが、土地の風習で長子の姉が婿養子を迎えて家を継ぎ、忠吉は同村のS家に婿入りして二児を儲けたが離婚し、職を求めて福島県若松市(現・会津若松市)へ行った。そこで大塚サイと知り合い初代を儲け、再婚して学校守り(用務員)となり二女・マキを儲けた[99]。初代は、1906年(明治39年)9月16日に福島県若松市川原町25番地で出生。母・サイが1914年(大正3年)に死去すると、翌1915年(大正4年)春、9歳で叔母(母の妹)に預けられた。3歳の妹・マキの方は父・忠吉に連れられ郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に行き、忠吉はその地で小学校の用務員となる[100]。叔母の家の初代は、小学校も中退させられて上京し(祖父の大塚家が上京したため)、子守として奉公に出されて他家を転々とした後、カフェ・エランのマダムの山田ますが身許引受人となって、そこで働き出した[96][97][99]
  11. ^ 1920年(大正9年)までは大学、高校とも、学年度は9月11日に始まり、7月10日に終わった[102]
  12. ^ 鈴木彦次郎によると、同人誌を企画し、皆で「湯島サロン」という店で話し合っているところへ、菊池寛芥川龍之介らが偶然やって来て、その場で菊池から『新思潮』を譲ってもらったとされ、翌日に菊池宅を訪問したとされている[79]
  13. ^ 初代に惚れ込んだヤクザな常連客が、自分の女に横恋慕する奴だと川端を名指し、撲るとか斬ると言っていたのを知った今東光は、相棒の宮坂普九と一緒に、「其奴を殴り倒し二度と川端に対して手を出せないように仕様と、実は短刀まで用意した」と語っている[95]
  14. ^ 石濱金作が1923年(大正12年)10月に、カフェ・エランの前の煙草屋の主婦から聞き出した情報では、伊藤初代は、岐阜県稲葉郡加納町にいた時に、ある者に犯されて自暴自棄になって家出してしまったとされる[17][56]。この人物が誰なのかは、伏字のない川端の日記によると、〈西方寺にて僧に犯されたり〉となっている[116]。2014年(平成26年)に、この強姦事件が事実であったことが、伊藤初代の息子の桜井靖郎により確認されている[117]。桜井靖郎は姉の珠代から、この母の秘密の事実を聞いていたという[117]
  15. ^ 伊藤初代との体験を元にした作品には、『南方の火』『篝火』『非常』『霰』『彼女の盛装』『新晴』『日向』『咲競ふ花』『生命保険』『弱き器』『火に行く彼女』『鋸と出産』『写真』『青い海黒い海』『丙午の娘讃』『明日の約束』『伊豆の帰り』『合掌』『大黒像と駕籠』『犠牲の花嫁』『父』『五月の幻』『入京日記』『処女作の祟り』『遥か昔』『西国紀行』『母国語の祈祷』『真夏の盛装』『二重の失恋』『空の片仮名』『水仙』『父母への手紙』『抒情歌』『雨傘』『見知らぬ姉』『父の十年』『浅草に十日ゐた女』『化粧と口笛』『姉の和解』『母の初恋』『再婚者』『日も月も』『離合』『美しさと哀しみと』『水郷』『途中下車』『時代の祝福』がある[6][18][19][69][114][119][120]
  16. ^ 『文藝時代』の同人は、伊藤貴麿石濱金作、川端康成、加宮貴一片岡鉄兵横光利一中河与一今東光佐佐木茂索佐々木味津三十一谷義三郎菅忠雄諏訪三郎鈴木彦次郎岸田国士、南幸夫、酒井真人、三宅幾三郎稲垣足穂であった[9][131]。川端は、牧野信一も同人に加えたかったが、菅忠雄などが反対ぎみの意向を示している[132][133]。『文藝時代』の創刊翌月、『文藝春秋』11月号に載った「文壇諸家価値調査表」(直木三十三が作った文士採点表)をめぐって憤慨した今東光が[134][135]、翌1925年(大正14年)4月に脱退し[131]、その後『文党』に行った[91][136][137]。横光利一も文士採点表に憤慨し、その掲載を許した菊池寛と『文藝春秋』に対して読売新聞に投書を送ったが、川端になだめられて一緒に読売新聞社に行き、その速達を返してもらったという一件があった[131][138]
  17. ^ 前年1925年(大正14年)の秋に文藝日本社から処女作品集『驢馬に乗る妻』が刊行予定だったが、出版社の破産で実現しなかった[145]
  18. ^ 熱海を舞台にした作品には、『椿』『死者の書』『女を殺す女』などがある[10]
  19. ^ ちなみに、逃げる泥棒を川端が玄関まで追ったが、梶井基次郎は怖くて、秀子夫人から呼ばれても部屋から下りて来られなかったという[143][156]
  20. ^ その後、支払わなかった家賃の催促が家主から無かったため、そのままになったが、家賃を遺して退去したのは、この熱海だけであるという。〈商人を踏み倒したことはなかつた〉と川端は語っている[128]
  21. ^ 浅草を題材とした「浅草物」には、続編の『浅草祭』や、『踊子旅風俗』『日本人アンナ』『「鬼熊」の死と踊子』『白粉とガソリン』『鶏と踊子』『浅草日記』『化粧と口笛』『浅草の姉妹』『浅草の九官鳥』『妹の着物』『二十歳』『寝顔』『虹』『田舎芝居』『夜のさいころ』などがある[10][163]
  22. ^ この年に大宅壮一の妻・愛子が死去したため、大宅の家にお手伝いに来ていた青森県八戸市出身の少女・嶋守よしえ(小学校5年生)を川端宅で引き取ることとなり、よしえのきちんとした身許保証人になるため夫婦の籍を入れたとされる[169]。のちに、嶋守よしえの娘・敏恵も、川端家のお手伝いとなる[170]
  23. ^ 伊藤初代は、川端と婚約破棄した後、中林忠蔵と結婚し、1923年(大正12年)に長女・珠江を儲けたが、中林は1927年(昭和2年)6月に肺病で死去。上京後知り合った桜井五郎と再婚し、1929年(昭和4年)に長男が生れるが夭折し、1931年(昭和6年)11月に次男が生れた。初代は桜井との間に7人の子供を儲け、内3人が死んで、4人を育てて、1951年(昭和26年)2月に数え年46歳で死去した[6][96][118]
  24. ^ その後、耕治人は川端に世話になり、戦後の1959年(昭和34年)に『喪われた祖国』を出版する。しかし秀子夫人の弟・松林喜八郎が小岩の公庫住宅に当たったという話を聞き、自分宅(借金をして地主から借地した土地)の中野区野方町1-605(現・中野区野方4-30-9)の隣りに借りた方がいいと、1958年(昭和33年)9月に誘い、そこに家を建て住んだ松林喜八郎と土地問題でトラブルとなり、訴えて敗訴する[20][169]
  25. ^ 「日本文学者会」の発起人には、阿部知二伊藤整上田広岡田三郎尾崎一雄尾崎士郎河上徹太郎岸田国士小林秀雄榊山潤島木健作武田麟太郎高見順富沢有為男、中島健藏、林房雄火野葦平、日比野士郎、深田久彌和田伝横光利一らがいた[199]
  26. ^ 1945年7月20日の第1回目の受賞者はプロレタリア作家から戦記作家に転向した里村欣三、里村は1940年7月に発表した自身の日中戦争での従軍記『第二の人生』で芥川賞にノミネートされながらも受賞を逃している。その後、里村は再度召集されて、マレーシンガポールフィリピンを転戦しながら戦記を書き続け、1945年2月にルソン島で戦死したため、戦記文学賞受賞理由を「報道戦における殊勲とその壮烈な戦死に対して」として、その「功績」に対して表彰し、遺族に賞金500円と記念品が追贈された。なおこの第1回だけで終戦により廃止となっている。(朝日新聞 1945年7月20日)
  27. ^ ほかに、大佛次郎、清水昆、小島政二郎横山隆一林房雄永井龍男らも、日替わりで店番をした[219]
  28. ^ 三島は来訪する時、可愛い動物の飾りのあるケーキや高級菓子を手土産に持参し、秀子夫人が受取ろうとすると、直接政子に手渡ししたがったという[228]。やがてその作戦が尽きると三島は、鎌倉文庫にいた山川朝子にアイデアの相談をしていたとされる[228]
  29. ^ この写真で川端の背後の床の間に掛かる絵は傅山(中国・明末清初)の『墨竹図』で、川端の美術コレクションの一品である[233]
  30. ^ 川端は同行者を豊島与志雄小松清と書いているが、『日本ペンクラブ三十年史』では、同行者は豊島与志雄、青野季吉となっている[234]
  31. ^ 実際、1961年(昭和36年)に、川端がノーベル文学賞を受賞する可能性があったことが、2012年(平成24年)のスウェーデン・アカデミーの情報開示で明らかになった [258]。ちなみに三島は、2014年(平成26年)の開示情報で、1963年(昭和38年)度のノーベル文学賞の有力候補6人の中に入っていたことが明らかになった[259][260]。なお、6人の中には三島の他に谷崎潤一郎西脇順三郎、川端も名を連ね、1964年、1965年度も同4名が候補に入っていた[261]。1965年については川端と谷崎への同時授賞も検討されていた[262]
  32. ^ 後藤孟は「賀茂丸」で川端と会ったことを以下のように述懐している。
    空腹だというので、わたしは親のこしらえてくれた弁当のノリ巻きをすすめたんです。川端さんはそれをホオばりながら、「ぼくには父も母もいないんだ」としんみり話ました。そうして、わたしに「下宿が見つからなかったら、相談に来たまえ」といってくれた。東京に着くと、川端さんが「朝ぶろに行こう」と誘った。熱すぎたのでジャ口をひねってうめていると、イレズミをした若い衆が五、六人はいって来て「ぬるいぞッ」とどなった。わたしは胸がドキドキしたが、川端さんは顔色ひとつ変えず、平然としていました。 — 後藤孟「談話」(『実録 川端康成』)[84]
  33. ^ ちなみに、三島由紀夫が初めて候補者に名を連ねた1963年度のノーベル文学賞選考資料で、選考委員会がドナルド・キーンに日本の作家についての評価を求めていたことが分かった[275]。当時キーンは、実績と重視し、年齢順に「▽谷崎潤一郎、76歳、▽川端康成、63歳、▽三島由紀夫、38歳」の順で推薦したが、本心では、三島が現役の作家で最も優れていると思っていたとし、それでも三島よりも谷崎・川端を高く評価したのは、年功序列を意識し日本社会に配慮したからだと説明して、「現在の日本の文壇では、彼が一番ぬきんでていると思う。しかし、谷崎や川端が、もし三島に先を越されたら、日本の一般市民は奇妙に感じるだろう。三島には、この先にもチャンスがある」と考えたと2015年(平成27年)3月に明らかにした[275]
  34. ^ 鹿沢縫子の実母・T子は長野市出身で、市内の松代町の小料理屋で働いていた20代前半の時に、福井県出身の50代の妻帯者・Oと知り合い、縫子を産んだ。Oには、妻との間に子がなかったため、縫子を認知し、妻とも養子縁組させて、同県松本市の自宅へ引き取った[289]。O宅は裕福であったが、縫子が8歳の時にOが亡くなり、養母がその6年後に盆栽店を経営するMと再婚し、縫子を連れて穂高町に来た[289]。Mには、すでに2人の男児と1人の女児があり、彼らは縫子の義兄、義姉となった。縫子は県内の県立蟻ヶ崎高等学校を卒業後、家業を手伝い、植木を車で配達していた[289]
  35. ^ 鹿沢縫子には、穂高町に恋人(中学以来の同級生)がいて、その翌年1973年10月に結婚した[289]
  36. ^ 三島由紀夫は、川端との会話での印象を以下のように綴っている。
    学習院の連中が、ジャズにこり、ダンスダンスでうかれてゐる、けしからん」と私が云つたら氏は笑つて、「全くけしからんですね」と云はれた。それはそんなことをけしからがつてゐるやうぢやだめですよ、と云つてゐるやうに思はれる。(中略) 僕が「羽仁五郎雄略帝の残虐を引用して天皇を弾劾してゐるが、暴虐をした君主の後裔でなくて何で喜んで天皇を戴くものか」と反語的な物言ひをしたらびつくりしたやうな困つたやうな迷惑さうな顔をした。「近頃百貨店の本屋にもよく学生が来てゐますよ」と云はれるから、「でも碌な本はありますまい」と云つたら、「エエッ」とびつくりして顔色を変へられた。そんなに僕の物言ひが怖ろしいのだらうか。雨のしげき道を鎌倉駅へかへりぬ。 — 三島由紀夫「川端康成印象記」[328]
  37. ^ 川端が1955年、当時新進芸術家であった草間彌生の作品を購入したことについては、草間の自伝には言及されているが、川端自身は草間の作品についての文章を残しておらず、どのような作品を購入したのかは一般には知られていなかった。2004年、東京国立近代美術館が草間の展覧会を開催するに際して調査した結果、『雑草』(1953年)と『不知火』(1955年)という2つの作品が川端康成記念会に保管されていることがわかった[351]
  38. ^ 川端旧蔵の金銅三鈷杵は奈良国立博物館の所蔵となっている。(参照:収蔵品データベース(奈良国立博物館)
  39. ^ 川端旧蔵の汝窯青磁盤は東京国立博物館の所蔵となっている。(参照:1089ブログ(東京国立博物館)2016年4月15日
  40. ^ この絵は昭和30年6月22日付けで川端康成蔵として重要文化財に指定されたものである[362]
  41. ^ 三八郎の生れ年に関しては、「幾歳幾月調」「明治八年十二月 国民軍取調誕生表」で調査すると、前年の天保11年(1840年)とあるため、こちらの年だという見解もある[15]
  42. ^ 恒太郎の死亡日については、羽鳥徹哉は5月14日としているが、笹川隆平は墓石で確認し、4月14日としている[15]
  43. ^ 「生きているのに」の曲名で収録。
  44. ^ この背景には、太宰治の友人・檀一雄が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」、「ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ」と言い[395]、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる[381]

出典

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  379. ^ 音声録音『川端康成ハワイ大学講義 源氏物語と自作を語る』(カセットテープ全6巻、藤田圭雄監修・解説、アポロン音楽工業、1987年)がある。
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  385. ^ 「梶井基次郎」(翰林 1934年9月号)。評論1 1982, pp. 321-325、一草一花 1991, pp. 175-177、随筆集 2013, pp. 249-252に所収
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  390. ^ 「文芸時評 窪川氏の『レストラン・洛陽』」(文藝春秋 1929年10月号)。評論2 1982, pp. 353-368に所収
  391. ^ 佐多稲子「川端さんとの縁」(『近代作家追悼文集成 高橋和巳・志賀直哉・川端康成』ゆまに書房、1999年4月)。『白と紫 佐多稲子自選短篇集』(学藝書林、1994年12月)。小谷野 2013, p. 193
  392. ^ 「文芸時評 『無法人』と『万暦赤絵』」(朝日新聞 1933年8月30日号)。評論3 1982, pp. 139-147に所収
  393. ^ 「志賀直哉」(新潮 1971年12月号-1972年3月号)。評論1 1982, pp. 645-668、随筆集 2013, pp. 257-287に所収
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  398. ^ 「芥川賞予選記」(文學界 1936年9月号)。評論3 1982, pp. 435-443に所収
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  405. ^ a b 川端香男里・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」(三島往復書簡 2000, pp. 205-237後記)
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