ゆかわ‐ひでき〔ゆかは‐〕【湯川秀樹】
湯川 秀樹 (ゆかわ ひでき)
1907〜1981 (明治40年〜昭和56年) |
【物理学者】 日本人初のノーベル賞獲得。中間子論は、クォークなど新素粒子発見のきっかけに。 |
昭和期の物理学者。東京都出身。京大卒。1934年(昭和9)素粒子論で原子核に働く中間子の存在を予言した。37年アンダーソンがその存在を宇宙線に発見すると、坂田昌一らと中間子場理論を展開。39年京都帝国大学教授。48年プリンストン高等研究所客員教授に招かれ、翌年コロンビア大学教授。49年日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した。53年京都大学基礎物理研究所所長。55年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となるなど、平和運動にも貢献した。 |
年(和暦) | ||
●1907年 (明治40年) | ■足尾銅山で暴動 | 0才 |
●1910年 (明治43年) | ■韓国併合 | 3才 |
●1918年 (大正7年) | ■米騒動 | 11才 |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 | 16才 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 | 21才 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 | 25才 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 | 29才 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 | 34才 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 | 38才 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 | 39才 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 | 44才 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 | 46才 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 | 49才 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 | 53才 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 | 53才 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック | 57才 |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に | 61才 |
●1970年 (昭和45年) | ■大阪で万国博覧会 | 63才 |
●1971年 (昭和46年) | ■環境庁設置 | 64才 |
●1973年 (昭和48年) | ■第1次オイルショック | 66才 |
●1976年 (昭和51年) | ■ロッキード事件 | 69才 |
●1978年 (昭和53年) | ■日中平和友好条約 | 71才 |
●1978年 (昭和53年) | ■成田空港開港 | 71才 |
●1979年 (昭和54年) | ■第2次オイルショック | 72才 |
・阪東 妻三郎 | 1901年〜1953年 (明治34年〜昭和28年) | +6 |
・小林 秀雄 | 1902年〜1983年 (明治35年〜昭和58年) | +5 |
・近藤 真柄 | 1903年〜1983年 (明治36年〜昭和58年) | +4 |
・古川 縁波 | 1903年〜1961年 (明治36年〜昭和36年) | +4 |
・美濃部 亮吉 | 1904年〜1984年 (明治37年〜昭和59年) | +3 |
・堀 辰雄 | 1904年〜1953年 (明治37年〜昭和28年) | +3 |
・榎本 健一 | 1904年〜1970年 (明治37年〜昭和45年) | +3 |
・朝永 振一郎 | 1906年〜1979年 (明治39年〜昭和54年) | +1 |
・大岡 昇平 | 1909年〜1988年 (明治42年〜昭和63年) | -2 |
・黒澤 明 | 1910年〜1998年 (明治43年〜平成10年) | -3 |
湯川秀樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 17:34 UTC 版)
湯川 秀樹(ゆかわ ひでき、1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日[1])は、日本の物理学者(理論物理学)。学位は、理学博士(大阪帝国大学・1938年)。京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。
注釈
- ^ 1936年、アンダーソンとその指導学生であるセス・ネッダーマイヤーは、電子の207倍の質量を持ち、電子と同じ負の電荷とスピン1/2を持つ素粒子(ミュー粒子)を発見したが、これは当初、湯川が「強い相互作用の理論」で提唱した中間子が検出されたものだと考えられ、「ミュー中間子」と称された。これは、湯川の提唱する新粒子とは異なる粒子であった[11]。
- ^ 物理学者の佐藤勝彦は、子ども時代をふりかえり、欧米の科学者がめぐまれた環境のなかで研究しているのに対し、日本という貧しい国にあって、紙と鉛筆とみずからの頭脳のみで新粒子を言い当てた湯川はヒーローであり、あこがれの存在だったと述べている[14]。
- ^ 「まがつび」とは「禍つ火」すなわち原子爆弾のことである。
- ^ 湯川の因果律の問題を空間的なものに制限し因果律を回避し、湯川の考えを生かしたのが朝永振一郎の超多時間理論である。これにより場の量子論は、相対論的に共変な形に書き換えられた。湯川は、この問題を非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい。
- ^ 湯川春洋の回想記に『湯川家に生きた子と母』(編著、どりむ社、2008年)がある。
出典
- ^ 『湯川秀樹』 - コトバンク
- ^ a b 『旅人 ある物理学者の回想』、p.10
- ^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.44
- ^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.49
- ^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.92
- ^ a b 本田靖春『現代家系論』p.104(文藝春秋社、1973年)
- ^ 本田靖春『現代家系論』p.102(文藝春秋社、1973年)
- ^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.87
- ^ 『旅人 ある物理学者の回想』、p.88
- ^ 「適塾」No.15(1982)『湯川博士と大阪大学』
- ^ a b c d 佐藤(2020)pp.34-37
- ^ 湯川秀樹博士について 兵庫県西宮市・湯川記念事業(2017年12月22日閲覧)[リンク切れ]
- ^ 湯川秀樹、原爆研究記す/終戦前後の日記公開/戦後の平和運動 歩み知る記録にも『日本経済新聞』夕刊2017年12月22日
- ^ a b c d 佐藤(2020)pp.37-38
- ^ 岡本拓司「日本人とノーベル物理学賞 : 1901年-1949年」『日本物理学会誌』 2000年 55巻 7号 p.525-530, doi:10.11316/butsuri1946.55.525
- ^ Nomination Database - ノーベル賞公式サイト
- ^ 原治、「非局所場理論」 日本物理學會誌 1982年 37巻 4号 p.275-277, doi:10.11316/butsuri1946.37.275
- ^ 『世界文學』1947年4月号、p.60
- ^ Hideki YUKAWA (1935). “On the Interaction of Elementary Particles. I”. Nippon Sugaku-Buturigakkwai Kizi Dai 3 Ki (日本物理学会、日本数学会) 17: 48-57. doi:10.11429/ppmsj1919.17.0_48 . ノーベル賞受賞論文
- ^ 国立国会図書館. “博士論文『On the interaction of elementary particles』”. 2023年4月1日閲覧。
- ^ “京都市名誉市民 湯川秀樹氏”. 京都市. 2022年9月6日閲覧。
- ^ "Yukawa; Hideki (1907 - 1981)". Record (英語). The Royal Society. 2012年10月8日閲覧。
「湯川 秀樹」の例文・使い方・用例・文例
- 湯川博士はノーベル賞を受賞し国に名誉をもたらした
- 湯川博士は科学研究に重要な役割を果たした。
- ノーベル賞受賞者湯川博士は1981年に死去した。
- 湯川博士は 1949 年度のノーベル物理学賞を受賞した.
- 湯川博士は 1981 年 9 月 8 日に 74 歳で没した.
- 帝(てい)都(と)大学物理学科の准教授,湯川学(まなぶ)(福山雅(まさ)治(はる))は,海辺の小さな町,玻(は)璃(り)ヶ(が)浦(うら)での会合に招かれた。
- 湯川は会合で開発計画に強く反対している若い女性,川(かわ)畑(ばた)成(なる)実(み)(杏(あん))と出会う。
- 湯川は成美と彼女の両親が経営している旅館に宿泊している。
- 湯川は岸(きし)谷(たに)美(み)砂(さ)刑事(吉(よし)高(たか)由(ゆ)里(り)子(こ))にこの事件の捜査協力を依頼される。
- 秀樹ったら、当事は全っ然こっちに慣れなくてね、しょっちゅうふてくされてたのよ。
- そういえば。やばい、秀樹に毒されてるわ。
- 私、山内です。山内秀樹の娘です。
湯川秀樹と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 湯川秀樹のページへのリンク