京都帝国大学教授
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隼三は「癲癇(てんかん)の原因及び療法についての動物実験」の論文をまとめ、翌年 京都帝国大学(後の京都大学)医科教授に就任し、外科学第二口座の担当を命ぜられた。講義、外来診療、手術、研究とフル回転。周囲の人が何時眠るか心配するほど精力的に働いた。 教授に就任して2年目、38歳の若さで大学付属病院長となったが、事務処理も練達で細部まできちんと管理をして、カルテなど医局員が間違った字などを書くと容赦なく叱りつけた。この間にも論文なども多数出している。 てんかんの手術を日本で最初に手掛けた人間の一人で、難治性てんかんの外科的治療や、1902年にもてんかんを含む40例の手術について報告している。また日本の麻酔を導いた先駆者の一人でもある。論文の指導なども徹底しており、論文の末尾に書かれた「引用文献」にも丹念に目を通す几帳面さを持ち。医師が私用に看護婦を使っている場面に出くわすと「看護婦は君の使用人ではない」と厳しく叱責するなど。しかし、厳格な態度の中にも人情味があり、患者を大切にし、医学への情熱の深さでは誰にも引けを取らなかった彼を、医師達は尊敬していた。 隼三は医学部長・大学付属病院長・大学評議員、帝国学士院会員(1918年3月25日)と、帝国大学医学部の教授としては最高の経歴を重ね、数千の門下を育て上げ、京大医学部のみならず日本医学界の発展に多大な貢献をした。
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