空襲に至るまで
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第二次世界大戦中のアメリカ軍は1944年(昭和19年)から市街地を対象として日本全土に大規模な空襲を行った。当時の岡山市は人口約16万人の中小都市であり、北郊の津島地区には陸軍の兵舎、兵器廠が存在していた。また、山陽本線を始めとした鉄道網が放射状に整備され、物資輸送上の拠点ともなっていた。こうしたことから、岡山市はアメリカ軍によって全国180の空襲対象の都市のうち、31番目にリストアップされた。 アメリカ軍の『目標情報票(Target Information Sheet)』には、岡山市を空襲することの意義について次のように述べられている。 「 A raid on Okayama should serve as an additional notice to the Japanese people that they will not go unnoticed or unharmed, even in the smaller urban industrial areas, if their city is at all important in the prosecution of the war. If the future looks grey to the people of other small cities, this might add the tint which makes it black.(岡山市への空襲は、たとえより小さい都市でも、その都市が戦争遂行上少しでも重要な働きを果たすものならば、見逃されるとか無傷でいることはできないという、更なる警告となるべきものであらねばならない。もしもほかの小都市の住民が、自分たちの未来は灰色だと思っているのなら、この空襲はそれを真っ黒にするであろう。) 」 —日笠俊男 『B-29墜落 甲浦村1945年6月29日』 吉備人出版 2000年 アメリカ軍は岡山市の重要性として、陸軍兵舎・兵器廠(現:岡山大学津島キャンパス、岡山県総合グラウンド)・(現:陸上自衛隊三軒屋駐屯地)、岡山駅と操車場、市の南西約25kmにあった三菱航空機工場(現:倉敷市水島)など、15か所を挙げていた。 しかしながら、アメリカ軍はこれらの軍事的な拠点よりもその下請けとなっている多数の小規模な工場と労働者、すなわち一般市民を攻撃対象とした。実際、アメリカ軍は15の重要拠点のうち、焼夷弾による攻撃対象地域に岡山駅と操車場、煙草工場と製粉所、岡山城とバラック(中学校校舎)の3か所のみを設定し攻撃の中心目標(MPI)を市街地の中心部、国道53号と県庁通りの交点(現:NTTクレド岡山ビル周辺)に決定した。周辺には当時の岡山市役所などが存在しており、最も効果的な攻撃が可能な地点であった。 1945年(昭和20年)6月に入ると戦局は一層激化し、3月の東京大空襲を始めとした大都市への攻撃から中小都市への攻撃へと対象が広がることとなった。そして、空襲7日前の6月22日には航空機の工場が存在していた水島地区がアメリカ軍による空襲を受けた(水島空襲)。
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空襲に至るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:39 UTC 版)
1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。10・10空襲で市役所の庁舎は焼失。1893年(明治26)頃、那覇役所は、東村の旧天使館跡(現那覇市東町、那覇市医師会館一帯)に移転し、1944年(昭和19)10月10日の空襲に至るまで、同地にあった。 この間、1896年(明治29)に首里とともに区制がしかれ、1921年(大正10)5月20日には、首里区とともに、市制が施行された。1917年(大正6)には、京都帝国大学教授武田五一の設計のもと、物見塔と庁舎が建設された。
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