日本軍の航空掩護
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 20:51 UTC 版)
鹿屋基地では、第二艦隊の上空援護を巡って宇垣と草鹿の間にやりとりがあった。宇垣は唐突に決まった作戦に反対しつつ「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対し、第二艦隊掩護命令を出した。第二艦隊は5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している。ただし、アメリカ軍の記録によると8時15分から正午すぎの空襲に至るまで、F6Fヘルキャット偵察隊やマーチン・マリナー飛行艇が第二艦隊上空に留まって監視任務を続行している。大和も8時40分にヘルキャット7機を確認したが、日本軍機との間で空戦が起こった記録はない。一方で、矢矧に乗艦した機関将校は第二艦隊上空を通過する特攻機を目撃している。 阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた。美濃部正少佐が指揮する芙蓉部隊(夜間戦闘機部隊)にも第五航空艦隊から大和掩護要請があったが、芙蓉部隊の戦闘機は美濃部の方針で空戦の訓練を行っておらず、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないと断っている。このように宇垣の第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった。 海軍から第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊第6航空軍司令官菅原道大中将は、「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と海軍側に約束している。約束通り、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機が出撃、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった。
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