日本軍の空襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:13 UTC 版)
第八艦隊の出撃と相前後して、8月7日午前8時頃、ラバウルから敵空母攻撃のために台南空の零式艦上戦闘機(零戦)17機、第二十五航戦の一式陸上攻撃機(一式陸攻)27機、第二航空隊の九九式艦上爆撃機9機が相次いで出撃した。午前11時頃ガダルカナル上空に達したが空母の姿はなく、ツラギ周辺の連合国軍艦船攻撃に移った。しかし、ツラギ上空にはブーゲンビル島監視員からの報告を受けたアメリカ軍戦闘機約60機が待ち受けていた。日本軍第一次攻撃隊は駆逐艦一隻を小破し、戦闘機11機・艦爆1機を撃墜したものの、陸攻5機、零戦2機を喪失する損害を受けた。また、この戦闘で坂井三郎一飛曹が被弾し重傷を負いつつも辛うじてラバウルに帰投している。ただし、日本軍は敵戦闘機48機、爆撃機5、中型機1を撃墜と報告した。第二次攻撃隊の艦爆9機は巡洋艦2隻の大破を報じたが、4機が失われ、残る5機も予定どおりショートランド南東で着水した。アメリカ軍は駆逐艦マグフォードが大破し、急降下爆撃機10機撃墜を報じた。日本軍航空隊は、翌8月8日も零戦15機、陸攻23機でガダルカナル島の連合国軍艦艇に攻撃を仕掛けた。駆逐艦ジャービスを大破、輸送船ジョージ・F・エリオットに陸攻一機が体当たりして船体放棄に追い込むという戦果を挙げるも、陸攻18機未帰還、零戦1機自爆という大損害を被った。ただし、日本軍は7日と8日の戦果を合計し「輸送船9隻、巡洋艦2隻、駆逐艦1隻撃沈。輸送船2隻、巡洋艦3隻撃破」と主張している。 これらの日本軍の航空攻撃は失敗したが、サボ島から120海里離れたサンクリストバル島西端沖にいた米機動部隊指揮官フランク・J・フレッチャー少将は大きな不安を覚えた。フレッチャーは珊瑚海海戦とミッドウェー海戦で指揮下の空母2隻(レキシントン、ヨークタウン)を失っており、今また2日間の戦闘で戦闘機16機、急降下爆撃機1機、偵察機1機を失った。フレッチャーは最初からガダルカナル島上陸作戦に反対であり、事前に海兵隊に対し「上陸開始後二日間で撤退する」と通告していた。さらに、日本軍航空攻撃に「零式艦上戦闘機」が加わっていたことから、日本空母1隻が近海に遊弋(ゆうよく)していると思い込んだ。このためワスプとエンタープライズは存在しない日本空母を捜索しはじめる。8月8日午前8時、ワスプの偵察機がレカタ湾付近で日本軍水上偵察機を撃墜した。フレッチャーは「ミッドウェー海戦」における南雲艦隊と現在の米機動部隊が同じ立場にいる事に危機感を覚え、一旦攻撃圏外に退避することを決断する。南太平洋海軍部隊指揮官R・ゴームリー中将に対して撤退する旨を伝えると、午後4時、上陸船団の上空援護を独断で放棄して南下した。ゴームリーは約4時間遅れてフレッチャーの行動を承認した。米機動部隊の独断撤退は、数々の激戦がフレッチャーの肉体と精神を疲弊させていたためだとされる。制空権を自ら失ったターナー少将と上陸部隊指揮官アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将は、警備部隊指揮官クラッチレー少将を重巡洋艦オーストラリアに招き、今後の行動を協議した。
※この「日本軍の空襲」の解説は、「第一次ソロモン海戦」の解説の一部です。
「日本軍の空襲」を含む「第一次ソロモン海戦」の記事については、「第一次ソロモン海戦」の概要を参照ください。
- 日本軍の空襲のページへのリンク