第一次攻撃
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1904年(明治37年)2月8日18時、日本の連合艦隊は旅順東方44海里の円島付近に進出、第一・二・三駆逐隊を旅順港、第四・五駆逐隊を大連湾へ進撃させた。20時50分、旅順港外にロシア駆逐艦を発見したので灯火を消したために衝突事故を起こした。日本の駆逐隊は隊列を乱しながらも更に進み、9日0時20分より港外停泊中のロシア艦隊を発見、約10000mから魚雷攻撃した。脱出後は仁川へ10日に集合した。この夜襲で戦艦ツェサレーヴィチ、レトヴィザン、防護巡洋艦パラーダに魚雷が命中した。ツェサレーヴィチは水線下の舵機室を破壊されて浸水、右舷に傾いた後、左舷に18度まで傾いた。レトヴィザンとパラーダも水線下に大破口を生じて浸水した。3艦は徹夜で防水に努めて、他艦の助けにより曳航されて湾内に入るも座礁擱座した。同時に第四・五駆逐隊が大連湾を襲撃したが敵艦に遭遇しなかった。 続けて翌9日朝より第三戦隊が旅順口の偵察と誘出のためにロシア艦隊に7000mまで接近したが前夜の混乱により戦意がなく、反撃されなかった。続いて第一・二戦隊が11時55分より距離8500mから約一時間にわたって昼間砲撃を行ったが、ロシア艦隊は誘いに乗らず、日本側も陸上砲台の射程に入らなかったため、互いにわずかな損害を出すにとどまった。日本の夜襲を許したスタルク中将は罷免され、代わってマカロフ中将が着任することとなった。 開戦劈頭に旅順口を襲撃した駆逐隊 第一駆逐隊(司令:浅井正次郎大佐)白雲(狭間光太少佐) 霞(大島正毅少佐) 朝潮(松永光敬少佐) 暁(末次直次郎大尉) 第二駆逐隊(司令:石田一郎中佐)雷(三村錦三郎大尉) 電(篠原利七少佐) 朧(竹村伴吾大尉) 第三駆逐隊(司令:土屋光金中佐)薄雲(大山鷹之助少佐) 漣(近藤常松少佐) 東雲(吉田孟子大尉)
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第一次攻撃
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「マニラの戦い (1574)」の記事における「第一次攻撃」の解説
11月30日、林鳳は日本人倭寇Siocoが率いる400-600人の海賊を投入し、気づかれず都市に夜襲をかけようとした。しかし、林鳳は海岸に到着した直後、道案内だったスペイン人捕虜を処刑するよう命じてしまい、道案内の喪失によって奇襲作戦は失敗に終わった。Siocoの遠征隊は危険な潮流に巻き込まれ、3隻の船を失い、パラニャーケに向かって流されてしまった。Siocoは、ロープで船を牽引しながらマニラまで徒歩で行軍することを決断した。 Siocoたちは地元民を手当たりしだいに襲っていたため発見された。住人達は倭寇をボルネオから来たイスラム教徒の盗賊だと勘違いしていた。マルティン・デ・ゴイティ総督は、サン・アグスティン教会近くの自宅で倭寇侵入の情報を得たが、10人の衛兵を派遣しただけで、警報を鳴らしたり、守備隊に知らせたりすることもなかった。 海賊はすぐに衛兵を殺して家を包囲したが、デ・ゴイティの妻ルシア・デル・コラルが窓から倭寇を侮辱した。激怒したSiocoは、家が十分に防御されていることを知り、火をつけるように命じた。当時、ゴイティは高齢で病気だったが、低い窓から飛び降りたという伝承がある。倭寇は彼の鼻と耳を戦利品として切り取ったとも言われている。 Siocoはマニラへの行軍を再開したが、地元民による警告が間に合い守備隊は防衛の準備を完了させていた。守備隊の指揮官はラベザリスで、彼の家は市街の反対側に位置していた。Siocoの部隊は城壁の外で、近くにいたロレンツォ・チャコンが指揮する20人のアルカブセロスに部隊に遭遇し、彼らの行軍を妨害した。数的優位に立った倭寇は、チャコンを包囲して迫り、残りの海賊が街に向かう前に8人を殺害した。倭寇は彼らを追いかけたが、アロンソ・ベラスケス率いるスペイン兵80人の一隊が側面から攻撃してきた。Siocoは戦術的な優位性が失われたことを悟り、さらにスペイン軍の援軍の介入を恐れて、林鳳との合流を約束していたカビテへの退却を呼びかけた。 Siocoと彼の部隊は林鳳の艦隊に乗り込み、2日間の休息後の攻撃再開を計画した。ラベサリスは近くの兵士をすべてマニラに呼び寄せて要塞を築き、新たな攻撃への対策をしていた。マニラでは、海賊がボルネオ島のブルネイ帝国ラジャに仕えているとの見方が根強く、ラベサリスは敵の内通者ではないかと疑って、地元のイスラム教徒の酋長ヌマナタイとラジャバゴの2人を逮捕した。その直後、サルセードが援軍を連れてマニラに到着したため、ゴイティの後釜にラベサリスを昇進させ、サルセード自身の率いる部隊は少尉だったガスパール・ラミレスに任せた。この時点でのスペイン軍は、イベリア兵150~200人、バウアンのイロカノ族の戦士200人と民兵数人だった。
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第一次攻撃
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「アントノフ国際空港の戦い」の記事における「第一次攻撃」の解説
ロシア連邦軍はキエフから10km以内に部隊と装備が到着できる空輸拠点の構築を目的に、キエフ郊外のホストメリにあるホストーメリ空港を確保するため、20機から30機以上のヘリコプターに分乗したロシア空挺軍をヘリボーンさせた。ロシア空挺軍は当初、3時間におよぶ戦闘後に空港を占領したが、ウクライナ国家親衛隊の第4即応旅団(英語版)による反撃が続き、防御側のロシア空挺軍が空港で包囲されて撃破された。 2022年2月24日の時点で、侵攻時に空港に駐機していた世界最大の航空機であるAn-225 ムリヤは無傷であることが確認された。
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