座礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/25 22:14 UTC 版)
座礁(ざしょう)とは、船舶が暗礁や浅瀬に底触したり乗り揚げる事象。厳密には座礁と座洲は区別されるが、座洲を含めた広義の総称として「座礁」ということもある[1](本項でも広義の座礁の解説となっている)。元々の用字は坐礁である。
- ^ a b c d e f g h i 奥本泰久「座礁海難と船体強度」『日本造船学会誌』第578巻、日本船舶海洋工学会、1977年、345-353頁、doi:10.14856/zogakusi.578.0_345、ISSN 0386-1597、NAID 110003864975、2020年8月31日閲覧。
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- ^ Moran, Lee (2012年1月2日). “Mystery of the DEAD herring: What made 20 TONNES of fish wash up on Norwegian beach?”. Mail Online. 2022年10月23日閲覧。
- ^ “疑惑の8種類で検証!「深海魚が打ち上がると地震が来る」は本当か?(山本 智之)”. ブルーバックス (2021年4月22日). 2022年10月23日閲覧。
- ^ “深海魚の出現は地震の前兆? : 東海大学新聞WEB版”. www.tokainewspress.com. 2022年11月20日閲覧。
- ^ “「すごい量のホタルイカをすくい放題」砂浜に青白い光“身投げ”の瞬間とらえた!まもなく海上観光も 富山湾”. TBS NEWS DIG. 2023年4月3日閲覧。
座礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 09:16 UTC 版)
軍艦は商船のように調査済の海路ばかりを通航するとは限らず、沿海では座礁の危険と隣り合わせである。 代表的な事例 モンターギュー(イギリス・前弩級戦艦) - 1906年5月30日濃霧の中でブリストル海峡ランディ島付近に座礁し、浸水転覆。 浅間(日本・装甲巡洋艦) - 1915年1月31日メキシコのバハ・カリフォルニア半島中部西岸で、海図に未記載の暗礁で座礁し行動不能に。工作艦「関東」の支援により離礁したのは同年5月8日であった。 時津風(日本・駆逐艦) - 1918年3月25日宮崎県青島村(現・宮崎市)折生迫海岸で座礁大破。船体は現場解体され、機関および一部兵装・備品を再用して舞鶴海軍工廠で修理名目により同一設計・同名の代艦が建造された。 ホンダポイント遭難事件(アメリカ・駆逐艦) - 1923年9月8日、死者23名カリフォルニア州沖を訓練航行中の米駆逐艦戦隊が航法の誤りにより次々と座礁、7隻が沈没、2隻が小破。 関東(日本・工作艦) - 1924年12月11日、死者99名舞鶴港に向けて日本海を航行中吹雪に遭遇し航路を逸脱、福井県河野村(現・南越前町)の二ッ栗岩に乗り揚げ沈没。 国後(日本・特別輸送艦)と神風(日本・特別輸送艦) - 1946年6月4日・7日静岡県御前崎付近で「国後」が座礁大破。3日後、同艦の救援に来航した「神風」も付近で座礁。両艦とも放棄、のち解体。 ラムーア・カウンティ(アメリカ・戦車揚陸艦) - 2000年9月12日チリ海軍との共同訓練中にチリのアントファガスタ州沿岸で座礁し、舵・推進器をはじめ艦底を激しく損傷して多量の燃料油を漏出した。 艦は復旧を断念され同年11月17日付で除籍、船体は翌年実艦標的として処分された。 ノッティンガム(イギリス・ミサイル駆逐艦) - 2002年7月7日タスマン海ロード・ハウ島東岸のウルフ岩礁で座礁し、バウ・ソナー脱落等の被害を受け、自力離礁不能に。 艦は重量物運搬船に積載されてイギリスに回航され、修理には2600万ポンドの費用と2年の期間を要した。
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座礁
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1988年、完成した麗神を日本郵船が傭船し、マツダやトヨタの新車を積載し、名古屋から出航した。この航海は、麗神にとって初の航海であった。 麗神はヨーロッパの国々に寄航し、搭載した新車を降ろしていった。それらの国々の1つであったポルトガルを出航した後、アイルランドへ向かう途中の1988年4月26日、麗神はポルトガルのポルト沖を航行中に座礁し、更に左側に横転、転覆した。座礁した場所は、ドール川の河口付近とされる。この事故で乗員1名が死亡した。 座礁時には船内にまだ自動車5,432台が積載されていた。このうちマツダ車が最も多く、西ドイツ向けのカペラなど1,800台を中心に約2,400台、この他トヨタ車も約1,500台余りが積載されていた。
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座礁
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第197船団が避退した名瀬港は、1950年(昭和25年)公布の港湾法第2条第9項において避難港の一つに指定されている港湾であるが、この第197船団の避難先としては、「極洋丸」の損害補償に関する交渉を担当した損害保険料率算定会の妹尾正彦が提出した請願書の中で、名瀬港は偏北風のときは波濤激しく好錨地ではないことを水路誌が指摘しており、また走錨の危険性も大であったことを明らかにしている。さらに、台風の進路が不明な時点で早々に名瀬港を避難先に選定したことは無謀であったとする。また、台風が奄美大島の西を通れば南からの風、東を通過知れば北寄りの風となり、台風の進路如何では名瀬港の風向きは推測できたとしている。第一海上護衛隊も必ずしも無策だったわけでなく、いったんは古仁屋への退避も検討をしていたが、暴風雨が激しく移動がかなわなかったことを報告している。 はたして、名瀬港に退避した第197船団の加入船は接近する台風からの暴風にあおられ、19日12時30分には出港命令が出されて圏外に出る試みもなされたものの、間もなく出港中止の命令が出て名瀬港にとどまることとなった。加入船は荒天準備を行って台風通過を待ったものの、台風は名瀬の東方55キロを通過して風速は53メートルを記録するなど猛威は衰えていなかった。19時ごろには視界が全くなくなり、21時ごろから荒天準備の甲斐なく加入船が波浪に翻弄されて次々と座礁する事態となった。遭難船の状況は次のとおりであった。 「武豊丸」:19日23時、大熊港山羊島212度2,200メートルの地点に座礁 「極洋丸」:19日23時48分、大熊港山羊島80度400メートルの地点に座礁 「金嶺丸」:座礁するも、自力で離礁 「江蘇丸」:19日16時に出港するも20日0時ごろに操舵不能に陥り、奄美大島宮古埼77度1,700メートル地点に座礁、行方不明2名、負傷者3名 「鵬南丸」:山羊島196度600メートルの地点に座礁、舵機破損(流失)により航行不能 「丹後丸」:19日21時20分、立神灯台380度〔ママ〕680メートル地点に座礁 「長寿山丸」:22時15分走錨となり、20日0時45分立神灯台南方付近に座礁 「真鶴」:錨鎖切断の上、19日23時45分山羊島の83度1,100メートル地点に艇首を北西方向に向けた状態で座礁 また、第197船団が当初退避予定先としていた古仁屋でも、特設砲艦「富津(とみつ)丸」(摂津商船、2,933トン)が、やはり台風によって座礁していた。
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座礁
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1942年(昭和17年)12月、浄宝縷丸にニューギニア本土への輸送作戦参加が命じられた。作戦実行まで時間があったため、浄宝縷丸は海軍航空隊の物資をニューアイルランド島のカビエンまで輸送することになり、護衛の駆逐艦とともにラバウルを出港した。しかし、12月11日朝にセント・ジョージ岬沖で米潜水艦シードラゴン (USS Seadragon, SS-194)による魚雷攻撃を受け、浄宝縷丸は航行不能となった。護衛の駆逐艦が潜水艦を追い払ったために浄宝縷丸は沈没を免れることができたが、そのまま駆逐艦に曳航されて、ラバウル港口に座礁させたまま放置されることとなった。 座礁した浄宝縷丸は居住区や船艙には異常がなかったが、右舷中央部に大穴が空き、機関室の損傷が甚大であった。更に乗組員たちを悩ませたのは発電機の故障であり、3ヵ月後に他の輸送船からパラフィンを譲ってもらうまで、乗組員たちは暗闇の中での生活を余儀なくされた。このような状況でありながら、乗組員たちは浄宝縷丸を見捨てずに空襲の間隙を縫って船体と機関の修理を開始した。 乗組員たちの食糧は現地の司令部から米、味噌、醤油などの最低限なものは支給されていたが、生鮮野菜が不足しがちであった。そのため、乗組員のほとんどに脚気の症状が出始めたが、やがて司令部から大根、白菜、ニンジンなどの種が支給された。これを受けて、乗組員たちは修理班と農耕班に分かれて作業をすることを決め、修理班が船体と機関の修理をする傍ら、農耕班は附近のジャングルを切り拓いて畑を造り、生鮮野菜を提供した。そしてこの間、浄宝縷丸の船体について処分を決めかねていた陸軍当局であったが、修理が順調に行われていることを知ってからは乗組員たちに資材などを提供し、積極的に修理に協力した。 修理の甲斐あって、浄宝縷丸の機関が再び始動するのは1943年(昭和18年)8月のことであった。浄宝縷丸はそれから更に2ヶ月かけて修理を行った結果、片肺運転ながら動けるようになり、日本に帰還すべくラバウルを出港するのは10月20日夕方のことであった
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座礁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 04:31 UTC 版)
パナヨティス号 MV Panagiotis号(en:MV Panagiotis)(1937年建造、452 GRT 総登録トン数、長さ47.8 m)は、嵐のために1980年10月2日に、この入江に座礁した。船がタバコなどを密輸していたという説が語られているが、船長のCharalambos Kompothekras-Kotsoros はこの説を否定しており、実際に彼は何の訴追も受けていない。座礁後の船は大規模な略奪にあっており、29名が逮捕されている。
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座礁
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「春雨 (春雨型駆逐艦)」の記事における「座礁」の解説
佐世保水雷団第十二駆逐隊の旗艦春雨は僚艦の磯波、綾波、浦波と共に土佐沖の海軍演習に参加した帰途であった。1911年11月23日夕刻、三重県の志摩沖にさしかかった時、大時化に遭遇して編隊行動の自由を奪われた。そこで司令大滝中佐は編隊をといて各艦に自由行動を令し、気象警戒海域での退避をはかった。 春雨の艦長児玉大尉は僚艦と別れて志摩市の的矢湾への避難入港を目指した。夜に入ると嵐はさらに強まり、海は大荒れに荒れた。真夜中近くに長岡村相差(現在の鳥羽市相差町)南岸、菅崎半島の八正道沖に差し掛かった際に春雨は余りに間近に菅崎半島から対岸の安乗埼灯台が明滅するのに驚き、後進に切り替えたことにより運悪く管崎海岸の三角形暗礁に艦の後部をのし上げて座礁した。 翌11月24日の早朝、嵐の翌日だったこともあり菅崎半島の崖下に海草取りに来ていた村人が崖下に流れ着いた春雨乗組員を発見したことで事故が発覚した。相差青年会により救助隊が組まれ現場の海域に到着したが、海は荒れており船で春雨に近づくことができなかった。そのため村人は命綱一つで重油も漂う荒れる海に飛び込み残っていた乗組員を救助した。 昼過ぎに湾口に現れた僚艦綾波や多くの村人達が見守る中春雨はマストを折り、煙突だけを波間に出しながら沈没した。この時春雨の捜索にあたっていた僚艦綾波は状況が把握できていなかったが、菅崎の台上から救助された乗組員が菅笠を両手に手旗信号で状況を送った。 自力で岸までたどり着いた者も含め救助された8名の乗組員はその日の内に的矢湾に入港した綾波により日本赤十字病院(現在の三重県伊勢市)に運ばれて一命を取りとめた。乗組員の多くは座礁した春雨より短艇で脱出を試みていたが嵐の中こちらも暗礁に乗り上げるなどして多くは海に投げ出され岩礁に体をうちつけ亡くなったようである。海女や漁師など村人総出で44名の殉職者全員の遺体は収容された。多くの遺体は脱出のため軽装だったのに対し発見された司令大滝中佐の遺体は一装の軍服を着用し、真新しい白の手袋をはめ、靴下から靴に至るまで村人には死出の装いのように感じその覚悟が窺い知れたようである。 1937年志摩郡在郷軍人総合会により、事故現場を見渡せる菅崎半島の厳頭に記念碑が設立され事故から100年以上過ぎた今も整備保存されている。
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