こう‐ぐん〔カウ‐〕【行軍】
行軍
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/17 04:16 UTC 版)
コルバッハの町はコルバッハ山上にあり、周りの平原からは400メートル以上の高さであった。コルバッハ山は町の東1マイルにあるベルンドルフ(ドイツ語版)の森まで伸び、町では道路が数本交差していた。コルバッハの近くには両軍の大軍が行軍していた。元帥ブロイ公以下フランス本軍は約18マイル南のフランケンベルクにいて、一方フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル率いる連合軍は6マイル東のザクセンハウゼン(ドイツ語版)にいた。ブロイ公にはヘッセンを通ってハノーファーへ北上する命令が下されており、コルバッハにいるフランス軍はこのときヘッセン=カッセルの首都カッセルから西25マイルしか離れていなかった。 コルバッハ自体は7月9日にハノーファーの軽騎兵指揮官ニコラウス・フォン・ルックナーが占領していたが、騎兵4個大隊とヘッセン猟兵1個大隊では守備に足りず、10日にはサンジェルマン伯爵の前衛に追い払われた。フェルディナントはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公子カール・ヴィルヘルム・フェルディナント率いるイギリス、ハノーファー、ヘッセン=カッセルの混成軍を派遣して、サンジェルマン伯爵の撃退、およびサンジェルマンとブロイ軍の合流阻止を命令した。グランビー卿にザクセンハウゼンの指揮を任せると、フェルディナントは大軍を率いてヴィルドゥンゲンへ行軍した。一方のカール・ヴィルヘルム・フェルディナントは朝9時にコルバッハの山麓に到着した。 連合軍のうちイギリス軍はジョン・グリフィン(英語版)が指揮官で少なくともスタッドホルム・ホジソン(英語版)率いる第5歩兵連隊(英語版)、エドワード・コーンウォリス(英語版)率いる第24歩兵連隊(英語版)、エドワード・カー率いる第50歩兵連隊(英語版)、トマス・ブルデネル率いる第51歩兵連隊(英語版)を含む6個大隊、ハンフリー・ブランド(英語版)率いる第1国王近衛竜騎兵連隊(英語版)の3個騎兵大隊、チャールズ・ハワード(英語版)率いる第3近衛竜騎兵連隊(英語版)の2個騎兵大隊、そして大砲18門を有するチャールトン率いる歩兵部隊であった。連合軍の合計はハノーファー、ヘッセン、ブラウンシュヴァイクの19個歩兵大隊、そして14個騎兵大隊であり、さらに近くにはルックナー軍もいた。 サンジェルマン軍は最初にはラ・トゥール=デュ=パン連隊(フランス語版)とラ・クーローヌ連隊(フランス語版)の2個旅団だったが、王立スウェーデン人旅団(英語版)とカステラス旅団(フランス語版)の3個スイス人連隊がその後を続き、さらにナヴァール連隊(フランス語版)と王立連隊(フランス語版)も駆けつけた。その合計は文献によって違い、10個歩兵大隊と15個騎兵大隊で合計7千とするものもあれば、6個旅団で合計1万とするものもある。歩兵の他には17個騎兵大隊もいた。
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行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/30 05:03 UTC 版)
7月22日早朝、マルモン軍は南に移動し、その前列はサラマンカの南東にあたる場所に着いた。西に眺望すると、フランス軍にはウェリントンの第7師団が山稜に配置されていることと、そのさらに遠い場所から煙がのぼっていることが判明した。マルモンはこの観察でイギリス軍の大半が撤退中であり、今出撃すればイギリス後衛と戦うだけで済む、と結論づけた。そして、彼はフランス軍を南、続いて西に移動させ、イギリス軍の脇腹を叩く戦略を立てた。 しかし、ウェリントンは自軍の大半を山稜の後ろに隠しており、さらに第3と第5師団がサラマンカから出撃していたため、マルモンの判断ミスとなった。ウェリントンはこのことを知られたら撤退する予定だったが、フランス軍が攻撃を仕掛けるかもしれないと様子を見た。 この山稜はLを横に倒したような形(つまり「』」のような形)をしており、その内側には谷、続いてもう1つの』形の山稜がある。つまり、2つの』形の山稜の間に谷が走っている。マルモン軍は内側の山稜に沿って移動したが、この山稜の傾斜は「アラピル・グランデ」(スペイン語: Arapil Grande)と呼ばれるように、険しいものだった。このため、フランス軍は朝には2本の傾斜のうち、短く、南北を走る傾斜しか占領できなかった。マルモンは側面攻撃のために軍を長い、東西を走る傾斜に沿って西へ移動させた。もう1つの山稜ではウェリントンがフランス軍から見えないことを利用して、精鋭を長い方の傾斜に配置した。 マルモン軍は西へ移動するにつれて、長い方の傾斜に薄く配置される形になってきた。 トミエール(英語版)師団が一番西に配置され、キュルトの騎兵がそれを支えた。さらにムキューナ(英語版)、ブエニエ(英語版)、クルーセル(英語版)、ボネ(英語版)、サルー(英語版)、ボイエーが続き、また短い方の傾斜にはフォワとフェレ(英語版)が配置された。
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行軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/11 15:51 UTC 版)
エリザヴェータ女帝の命令にもとづき、サルトイコフは1759年6月から着々と行ってきたプロイセンへの進軍をさらに継続した。ロシアの軍勢を7万とする文献もあるが、もっと現実味のある見積もりとして4万1千とする文献もある。同様に、フリードリヒ2世はドーナ将軍にロシアの進軍を止めるよう命令した。このとき、ドーナ軍は2万6千人で騎兵も数個中隊あった。 7月中旬、サルトイコフとドーナは互いに対する陽動に1週間を費やしたが、その間もサルトイコフはプロイセン国境に接近した。14日、彼は南西のオーデル川、クロッセン(英語版)とグローガウの間に向かい、19日にシレジアとの境界にあるチュリヒャウに着くと数日間休息をとった。 プロイセン軍はというと、フリードリヒ2世はドーナを更迭して、カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル(英語版)をその後任に据えた。ヴェーデルは20日に着くとチュリヒャウでロシア軍の行き道をふさぎ、オーデル川への進軍を阻止した。彼は翌日に攻撃を仕掛けようとしたが、ロシア軍の弱点を上手く見つけられなかった。 20日、サルトイコフは軍の一部をカイとチュリヒャウに向かわせ、自らはオーデル川でプロイセン軍のクロッセンとフランクフルト (オーダー)との連絡線を切断した。この時点でロシア軍はカイの高地と、モズフ(英語版)にあるもう一つの高地を占領していた。ロシア軍の地理的な優位はこれだけではなかった。アイヒミューレン=フリース(ドイツ語: Eichmuehlen-Fliess)という小川がカイの東で低地にある沼地を流れており、渡河できる場所が少なかった。1つはパルツィヒの東にある道で、ロシア軍中央と相対しており、まず無理であった。もう1つはカイの南であり、ロシア軍右翼への突撃が成功すると渡河は可能であった。では突撃が現実的であるかというと、ロシア軍が全軍を出撃させなければ可能、というのがヴェーデルの考えであった。23日、ヴェーデルはサルトイコフ軍を偵察して、行軍中であることを確認した。ヴェーデルはフリードリヒ2世から直に「いい陣地」を確保する、そして「望ましい攻撃手段」を使う命令を受けていた。フリードリヒ2世の命令での「いい陣地」とは守備に優れた陣地を意味し、「望ましい攻撃手段」とは斜行戦術(英語版)を意味していた。ヴェーデルは大王の信任を維持するためにはサルトイコフ軍がフランクフルトに進軍する前に戦闘にもちこむ必要があると認識し、進軍を命令した。この時点でヴェーデルのとれる最良の戦略はロシア軍より先に高地のパルツィヒを確保することであり、パルツィヒの確保にはカイを通るのが一番良い方法であった。
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