砲撃
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砲撃(ほうげき)は、砲による攻撃であり、砲と名のつく物の攻撃は全て砲撃と形容しうる。単に砲撃というと榴弾砲や迫撃砲による長距離攻撃を指す事が多い。ロケット弾や地対地ミサイルは厳密には砲ではないものの、類似性から同一視されることがある。
概要
砲に類似し、砲と同様の効果をもたらした最初期の兵器は、攻城兵器や海戦に投入された兵器であった。古くは投石機(カタパルト)が石、岩、可燃物の充填された投射物を投擲し、遮蔽物を越えて目標へ命中させるか、遮蔽物へ直撃させてこれを破壊した。
火薬の発明後は前装式の大砲が城塞などに対して砲撃を加えた。その後、砲撃は、砲の性能向上や砲弾の性能向上によって威力を増していった。しかし、最初期の砲弾は、炸薬が詰められていない実体弾または実体弾の集合物を飛ばすだけで、炸裂による爆風の射入、広範囲の焼夷効果、生成破片の投射などは期待できず、直撃した目標しか破壊できなかった。そのため歩兵の集団に対しては限定的な効果しか持たなかった。歩兵に対する砲撃として効果のあるぶどう弾や散弾が開発されたものの、これらの弾種は精度・射程の問題から至近距離でしか使用できなかった。19世紀頃までの大砲は、最前線に近い場所に展開し、目視で砲撃を行っていた。
第一次世界大戦ごろまでに砲は様々な発明により進化した。製錬技術の進化、砲架の軽量化、砲身の強化、ライフリングの登場、後装化、駐退復座器の装備、金属薬莢の発明、無煙薬の登場である。砲は長距離射撃の技術と運用法が確立され、砲撃による死傷者が急増し始めた。榴散弾の発明によって、広範囲に破片を撒き散らし、多くの人間を殺傷できるようになった。また、電信の発明により、砲から目視できない距離でも、戦線からの情報をもとに長距離砲撃を行うことが可能になった。これは、前進観測兵が敵前線の様子を観察し、後方に配置された味方砲兵陣地からの砲撃と着弾を観測して方位と誤差を報告、砲兵部隊はこのデータを元に修正を行い、効力射を得るものである。榴弾による長距離砲撃は現代でも最も基本的な砲撃といえる。現代の砲兵は榴弾を時限信管や近接信管によって空中炸裂させる曳火射撃を行い、生成破片を広範囲に投射し、広く地上の非装甲目標を攻撃することができる。
関連項目
砲撃
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「マルタ包囲戦 (1565年)」の記事における「砲撃」の解説
8月7日の攻撃の後、オスマン側はセングレアの聖ミケーレ砦と、ビルグへの砲撃を再び始めた。8月19日から21日の間、首都に対する総攻撃を準備しながらである。この3日間に行われた激しい戦いで実際何が起こったのかは、全体的に明らかでない。 包囲戦の只中にあったある箇所では、外から侵入しようとオスマン側が掘った坑道が通じたせいで、防護壁を開け放っていた。総長は自ら危険を顧みずに戦闘に加わり首都を救った。総長は『彼の存在は奇跡として作用し、脅威を与える立場にいた。手には剣を持ち、オスマン軍が退却するまで最も危険な場所に身をおいていた。』という状態にあった。ボジオは成功を収めた坑道爆破の記述を残していない。むしろ、首都に篭城する住民が壁の外側にいるオスマン正規軍を探る際にはパニックが続いて、総長は向こう側へ走り込んだがオスマン兵を一人も見つけられなかった。その間、一人の砲手が聖アンジェロ砦の頂上で、同じパニックのため恐怖に襲われ、味方でありながら発砲して彼は首都の住民一人を殺してしまった。
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砲撃
「砲撃」の例文・使い方・用例・文例
- 兵士たちは未明に砲撃を浴びた
- イギリスの砲撃がフランス船を沈没させた
- 彼らは敵の砲撃に対し,必死に応戦した
- 砲撃はますます激しくなってきたので、私たち、走って地下室に降りていったのよ。
- 砲兵隊は一日中敵に砲撃を加えた.
- 彼らは敵襲に対し猛砲撃を浴びせて反撃した.
- 町を砲撃する.
- 砲撃を開始する
- 日本軍は旅順の砲撃中なりき
- 砲兵は終日砲台を砲撃した
- 盛んに砲撃する
- 砲撃を受ける
- 城壁は砲撃に堪える
- 砲台を砲撃しても利き目が無かった
- 砲撃がことごとく功を奏した(百発百中)
- 砲台を砲撃してもなんの功も奏さなかった
- 砲台を砲撃する
- 砲台から軍艦を砲撃する
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