第一次改革法案
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1830年6月26日に国王ジョージ4世が死去すると、法律に基づき議会が解散され、総選挙が行われた。前回の議会(1826年から1830年まで)で選挙改革が盛んに議論されたため、選挙活動でも取り上げられる議題になり、イギリス各地で改革支持の「政治同盟」(political union、主に中流階級と労働者で構成される)が設立され、中でもトマス・アットウッド(英語版)率いるバーミンガム政治同盟(英語版)の影響力が最も大きかった。これらの政治同盟は請願提出や演説など合法の手段のみで改革を支持し、大衆の支持も厚かった。 総選挙ではトーリー党多数という結果となったが、トーリー党は引き続き分裂しており、首相初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーへの支持は弱体だった。そして、議会が開会すると、野党は選挙改革問題を取り上げ、ウェリントン公爵から「今この国が有する立法府は、立法の良き目的を、いかなる国の立法府よりも良く果たせている。更に言うと、立法府と代議制度は全国から全幅の信頼を寄せられている。[...]そこから更に言うと、もし今から何らかの国の立法府を設立するという任務を課せられても、[...]今この国の立法府ほど優秀なものを設立することは人類の能力を超えているので、私にはそれができない。[...]この国の政府で何らかの職についている限り、他人より提案された改革案に反対することを私の義務であると感じている」という失言を引き出した。ウェリントン公爵が発言で示した強硬な態度はトーリー党内でも反対の声がみられ、発言から2週間も経たない1830年11月15日にはウェリントン公爵が不信任決議の採決で敗北して退陣を余儀なくされた。作家シドニー・スミス(英語版)が述べたところでは、「政権がそれほど完全に、突然に破滅したのは史上でも見られないことである。私はその理由を公爵の宣言にあると考え、また宣言が世論に完全に無知のままなされたことであるとも疑っている」という。ウェリントン公爵の後任にはホイッグ党のチャールズ・グレイ(1807年にグレイ伯爵位を継承)が就任した。 グレイ伯爵は就任してすぐに議会改革を公約、1831年3月1日にはジョン・ラッセル卿が政府を代表して改革法案を庶民院に提出した。この改革法案では小さなバラ選挙区のうち60区を廃止、47区の定数を減らした。これらの議席のうち一部が廃止されたほか、ロンドン近郊、大都市、カウンティ選挙区、スコットランド、アイルランドに再分配された。また、バラ選挙区の投票権資格規定を統一して拡大、有権者数を約50万人増やすとした。 3月22日に行われた法案の第二読会では議長を含む議員608名が出席したが、これはそれまでの会議と比べて出席人数の最も多い会議となった(それまでの記録は530人)。しかし、採決では1票差で可決したにすぎず、さらなる進展は難しかった。法案が委員会段階に進むと、トーリー党のアイザック・ガスコイン(英語版)議員が庶民院議席数を減らす条項に反対する動議を提出、政府は動議に反対したが結局8票差で可決された。その後、議事進行動議(procedural motion)で政府が22票差で敗北すると、議会が改革法案に反対していることが明らかになり、グレイ伯爵は政策への支持を国民に訴えようとして解散総選挙を求めた。
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